「道」から見た国柄の違い

 1998年、プロレスラーのアントニオ猪木が引退試合で詩を披露した。リアルタイムでテレビ中継を見ていたが、なんだか気恥ずかしかったことを覚えている。

 「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」 


 この詩は、『猪木寛至自伝』に、一休宗純の言葉として掲載されているらしいのだが、実は、一休さんの詩ではなく、清沢哲夫(のちの暁烏哲夫)氏の詩「道」だそうだ。

 この詩は、初出「同帰」第335号(昭和26年10月1日発行)。 『無常断章』1966.5 法蔵館に所収されているそうだ。

「道」

  此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ  危ぶめば 道はなし  ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である  わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ

 さて、この和語「みち」の語源は、御路(みち)だそうだ。

 ち(血)、いのち(命)、まち(町)、いち(市)、いかずち(雷)、ちから(力)などの「」は、ほとばしる生命エネルギーを表すらしい。

 想像力を逞しくすると、人々が一歩一歩踏み固めてできた道は、家同士や村落同士を結びつけ、人々の生活に必要な人・物・情報を届けるが故に、まるで血管のような尊い通りであるとして、みち(御路)と呼ばれたのではあるまいか。

 又は、もっと単純に考えて、神様がお通りなるので、みち(御路)と呼ばれたのかも知れない。


 このように「みち」は、通行するための通り道路という意味なのだが、それにとどまらず、古くから物事の道理(道徳・正義に適った世の理(ことわり))という意味もあった。


 例えば、奈良時代の歌人山上憶良(やまのうえのおくら)の最高傑作として名高い長歌「貧窮問答歌」(万葉集5巻892)に「かくばかり すべなきものか  世間(よのなか)の道」とある。


 折口信夫(おりくちしのぶ)の『口譯萬葉集(上)』(『折口信夫全集第四巻』中公文庫256頁)は、「人間世界の生活方便といふものは、こんなにまで、遣る瀬ないものですことよ」と訳している。


 しかし、いまいちピンとこない訳だ。

 ど素人なりに考えてみるに、この一節の直前に、貧窮している家に、「笞杖(しもと)執(と)る 里長(さとをさ)が声は  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ」(鞭を持った里長の声が寝る場所までやって来て喚いている)とあるので、おそらく寝ているところを大声で叩き起こされ、農作業や土木作業に駆り出されようとしているのだろう。作業に従事せねばならぬのは、道理とはいえ、「こんなにも、どうしようもないのか、世の中の道理というものは」という嘆きの言葉として訳すのが妥当だろう。


 このようにもともと「みち」には、道徳・正義に適った世の理、真っ当なことという意味があり、これが、物事の道理に適った状態になること、学問・武芸・芸能などの真髄という意味へと変化し、漢字「道」と結びついて武士道、華道、茶道などの言葉を生んだのだろう。


 これに対して、漢字「道」は、行くという意味の辶(しんにょう)と首から成り立っている。

 立命館大学名誉教授白川静氏によれば、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力(呪いの力)で邪霊を祓い清めて進んだ。その祓い清めて進むことを導(みちびく)といい、祓い清められたところを道(みち)としたらしい(『常用字解』平凡社)。

 『新漢語林』(大修館書店)も、「異民族の首を埋めて清められた、みちの意味を表す」とあり、同旨だ。

 異民族の生首を持ち歩いたり埋めたり して、征服した異民族の地を祓い清めるなんて、正気の沙汰ではない。いやはやなんとも恐ろしい!


 今から40年ほど前だろうか、弁護士さんが「なぜ地鎮祭をするのか?」と訊くので、津市地鎮祭訴訟を念頭に、「土地の神様をお祀りして、工事の安全を祈願するためでしょう」と答えたら、「違う」とおっしゃるではないか。

 驚いて、「ではなんのためでしょうか?」とお訊ねしたら、「その土地で戦さや疫病などで亡くなった霊をお祓いするためだ」と教えてくださった。

 確かに、そんな霊がいたら、気持ち悪い。地縛霊などの悪霊が工事を邪魔するかもしれないし、工事が無事に完了しても、住み始めたら呪われるかもしれない。穢れを祓い清めてほしいから、神主さんに地鎮祭を挙行していただくわけか、と妙に納得した記憶がある。

 このように穢れを何よりも忌み嫌う我々日本人の感覚からすると、お祓いのために殺害したばかりの血が滴る異民族の生首を持ち歩いたり埋めたりしたら、却(かえ)って呪われたり祟られたりしそうで、恐ろしい。

 古代から現代まで異民族と生死を賭けた興亡を繰り広げてきた支那(シナ。chinaの地理的呼称。)人の感覚と日本人の感覚の違いに愕然とせざるを得ない。


 和語「みち」と漢字「道」は、現代ではほぼ同義だが、このような違いから、支那では武士道・華道・茶道などの「真髄」をきわめるという意味が生まれなかったのではないかと考えると、大変興味深い。


 なお、英語streetストリートの語源は、ラテン語で「舗装」を意味するstrataストラータであり、また、英語roadロードの語源は、古英語で「乗り物に乗ること」を意味するrādラードであって、いずれも、漢字「道」のようなおどろおどろしい意味はない。

 このように由来を異にするstreetとroadは、意味によって使い分けられている。すなわち、streetは、住宅や店舗が並ぶ狭い道を指すのに対して、roadは、車が通る広い道を指す。


 なお、以前、斧から見た国柄について、述べた。




 




 

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