8月15日が近づくにつれて、テレビや新聞が、GHQの占領政策に由来する自虐史観に基づく戦争に関する話を採り上げ、平和教(共産主義)を繰り返し布教し、厭戦(えんせん)気分を醸成して国防意識を失わせるが、テレビや新聞では報道されないお話をいくつか書いておこう。
1 ハワイの悲劇
明治14年(1881年)、ハワイ王国のカラカウア王が、初の外国元首として来日した。日本に救援を求めるためだ(宮内庁編『明治天皇紀』巻5、吉川弘文館)。
カラカウア王は、「アメリカの進出によってハワイの独立は危殆(きたい)に瀕(ひん)している。何とかして、自分の姪のカイウラニ姫の聟君(むこぎみ)として、海軍兵学校在学中の皇族山階宮定麿王(やましなのみやさだまろおう。のちの東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう))をいただきたい。そして、自分の後を継いでハワイに君臨していただき、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい」と明治天皇に申し入れた。
明治天皇は、即答を避け、後日、外務卿を通じて「日本皇室にはそのような例がない」と辞退された。
その結果、アメリカは、クーデターで王政を転覆させた。リリウオカラニ女王は、退位し、反逆罪で重労働5年の有罪判決を受け幽閉された(幽閉中に女王が作られた歌がアロハ・オエ)。
日本では「ハワイ事変」と呼んで、ハワイ在住の邦人保護を理由に、巡洋艦を派遣して、アメリカを牽制した。
アメリカは、自分たちの行動を正当化するため、これを「ハワイ革命」と称し、一旦名目的に「ハワイ共和国」を樹立させてから、1898年(明治31年)にハワイを併合して、州とした。
そして、ハワイをアジア進出の一大拠点とすべく、海軍基地を築いた。これがパール・ハーバー(真珠湾軍港)だ。
「中国革命の父」孫文は、清朝を打倒するためハワイ在住の華僑から資金援助を取り付ける目的でハワイ滞在中に、ハワイ王国が打倒されるのを目の当たりにして、祖国の植民地化を危惧し、1日でも早く清朝を打倒すべくハワイで興中会を結成した。その後、孫文は、1911年辛亥革命(しんがいかくめい)により中華民国を建国した。
2 中国の「抗日戦争勝利記念日」(9月3日)の嘘
蒋介石(しょうかいせき)は、日本の陸軍士官学校で学び、辛亥革命に参加し、支那(しな)事変以後、共産党と統一戦線を組んだが、重慶(じゅうけい)に移ってからは、反共路線を取った。戦後、1948年に中華民国総統になったが、国共内戦(中国国民党と中国共産党による内戦)により、共産党の人民解放軍によって台湾に追いやられた。
1949年10月1日に毛沢東中国共産党主席が、北京市天安門広場で建国宣言を行って、中華人民共和国が成立した。
蒋介石は、次のように述べている。
「毛沢東の“思想”をふきこまれた第八路軍(※毛沢東率いる共産党軍)が、まともに抗日戦を戦うはずがない。彼らは兵力の損耗をおそれて日本軍とは正面から戦わず、政府軍(※蒋介石率いる国民党軍)の力で勝ちとった戦果を横どりし、あたかも彼らが勝ったかのように宣伝することにのみ、力をそそいだ。
戦後、共産党は、抗日戦を戦ったのは、あたかも共産党であるように吹聴した。彼らの宣伝によると『共産軍は対日本軍作戦の六九パーセント、対汪兆銘作戦の九五パーセントを担当し、作戦回数は十二万五千回を超え、日本軍、汪軍百七十一万余をせん滅した』というが、これはまったくの“創作”である。
公式に残る戦史では中国軍と日本軍の戦闘は、小戦闘三万八千九百三十一、重要戦闘千百十七、大会戦二十二の計四万七千回に及ぶが、第八路軍が戦闘に参加したのは平型関(一九三七年九月、一個師団)と、山西南部遊撃戦(一九三八年春、二個師団)のたった二回にすぎない。このことは、連合軍参謀長ウェデマイヤーの報告によって確認されている通りである。」(『改訂版・蒋介石秘録(下)』サンケイ新聞社)
ウィンストン・チャーチルは、『第二次世界大戦』(河出書房新社)で、フランクリン・ルーズベルト大統領から今回の戦争をなんと呼ぶべきか、と問われたときにチ ャーチルが即座に答えた言葉が「the Unnecessary War」だ。「無用の戦争」と呼んで嘆いているのだ。
チャーチルは、「我々が打ち勝ったよりも、さらに大きな危険(共産主義の侵出)にさらされるようになったことは、人類の悲劇これより大なるはない」と戦略の間違いを率直に認め、真の敵はソ連と中国だと考えていた。
フランクリン・ルーズベルト大統領の政敵で、真珠湾攻撃時、野党である共和党のリーダーとして、米国の開戦阻止運動をしたハミルトン・フィッシュも、「日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。これは、お互い同士よりも共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。われわれは、戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的であった中国を共産主義者の手に奪われることになった。」と述べている(『日米開戦の悲劇』PHP文庫)。
3 戦争の意義
私は、戦前戦中の軍国主義や右翼(国家社会主義)を賛美する者ではない。しかし、平和教に基づく偏向報道により、残虐非道の鬼畜で、犬死に扱いされる旧日本軍将兵があまりにも不憫(ふびん)なので、お二方の言葉に耳を傾けてみようと思う(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社←民族派の本なので、私とは立場が違うけど、参考になることも書いてあった)。
韓国の韓日文化研究所創立者である朴鉄柱氏は、次のように述べている。
「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、このようなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」
インドネシアのスマトラ義勇軍出身のH・アラムシャ将軍は、次のように述べている。
「日本軍政時代の三年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝国の学者や欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかしそれでは、全体を語ったことにならない。仮に日本の軍政に欠点があったとしても、たかが三年半である。オランダ時代の三世紀半とは比べものにならぬ。日本とオランダを同じ質、同じ量と見て批判するのは根本的に間違っている。
私は日本軍の小さな欠点をあげつらう代わりに、大きい長所を挙げてみたい。
第一は、インドネシアの全国民がオランダ人の醜態を見たことだ。短躯小身の日本兵が、巨漢を自慢するオランダ兵を、我々の目の前で打倒して見せてくれた時、我々の心に棲みこんでいた魔神のようなコンプレックスはたちまち消え去って、新しい勇気が湧いて来たのである。
第二は、日本軍の軍政が良かった。近き将来に独立した時の大統領としてスカルノを、そして、副大統領としてハッタを当てると公表して、大切に取り扱った。
第三は、軍事訓練と武器の供与である。ジャワ派遣軍司令官・原田熊吉中将の熱烈な応援により、PETA(※ペタ。祖国防衛義勇軍)が創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、三万八千人の将校を養成した。その他、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。
第四は、日本軍が無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれたことである。我々インドネシア軍は戦争に未経験だったから、経験豊かで、しかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、いかばかり独立戦争を我々に有利な方向に導いたか、はかりしれない。
第五は、PETAがインドネシア国軍の母胎となったことである。スハルト将軍はつねづね「PETAは独立戦争の主力であり、国軍の母胎となった」と言明している。
第六は、インドネシア国軍は戦略と戦術の方針を、日本軍の文献(「作戦用務令」等)によって作成したことである。」
0コメント