支那の政治文化の支配原理

 下記の記事を読んで、幇を思い出したので、ここに書いておこう。


 以前述べたように、支那(シナ。chinaの地理的呼称)の歴代王朝は、夏、殷、周、春秋・戦国時代、秦、漢(前漢)、新、漢(後漢)、三国時代、晋、五胡十六国時代、南北朝時代、隋、唐、五代十国時代、宋、元、明、清であり、そのうち、漢民族が作ったとされる王朝は、夏、殷、周、秦、漢(前漢、後漢)、新、晋、明の8つだけだ(夏の存在については、学説上疑われているし、また、秦を建国したのはチベット系羌族(きょうぞく)だとする説もあるし、さらに、明代になるまでに、民族の交雑が進み、純粋な漢民族はいなくなったと思われるが、これらの点は、とりあえず捨象する。)。  


 しかし、夏、殷、周は、黄河中下流域の中原(ちゅうげん)と呼ばれる狭い地域の王朝にすぎず、支那全土の統一王朝ではなかったし、秦と新と晋は、短命だったから、極論かもしれないが、漢民族が支那全土を統一支配したのは、漢と明の2王朝だけと言っても過言ではない。

 つまり、長い支那の歴史において、漢民族は、そのほとんどの期間を異民族に支配されていたと言えよう。



 このように支那では、異民族が入り乱れて、民族・国の興亡が激しいので、漢民族は、自分たちが生き残るために、血がつながった者同士で結束するしかなかった。頼れる者は、血族しかなかったのだ。 

 これが漢民族の「宗族(そうぞく)」だ。

 ここに「宗族」とは、支那における父と子の血縁関係に基づく父系集団をいう。宗族の特徴は、共通の始祖と祭祀を持つ血縁共同体であって、姓を同じくし、同一宗族間の結婚が絶対に許されないことだ。

 宗族は、族長を中心に、祭祀、土地の管理、族譜の管理等を行う血縁共同体であった。

 ところが、古代から続く宗族は、時代を経るにつれて衰退していき、地方の農村部に残るだけになった。

 なぜなら、宗族は、各地域の血縁共同体として存在していたが、打続く戦争・異民族支配や飢饉などによって、流民・移民として他の地域に移動し、宗族の構成員が離散したり、律令制に基づいて役人として地方へ派遣された者が土着したり、都市化・商業化によって農村部から都市へ人口流出したりするなどして、宗族内の結びつきが弱まり、宗族を頼りにできない人々(流民・移民、商人、職人など)が増加したからだ。


 ただし、現代においても、宗族の慣習は、色濃く残っており、同姓で、同一宗族間の結婚は、反倫理的行為として許されない。


 話を戻すと、流民・移民並びに都市化及び商業化に伴って宗族が十分に機能しないようになるにつれて、これに代わって、非血縁のネットワークである「幇」が形成されるようになった。幇は、血縁ではなく、利害・職業・出身地で結び付いた相互扶助の結社だ。


 我々日本人にとってイメージしやすいのは、『三国志演義』で、劉備玄徳(りゅうび げんとく)、関羽雲長(かんう うんちょう)、張飛翼徳(ちょうひ よくとく)が義兄弟の盃を交わした「桃園の誓い」だろう。これが幇だ。


 幇には、出身地を同じくする互助組織である同郷幇、同業者による業界組織である行幇(ex.華僑)、政治的・宗教的組織である秘密結社としての幇、裏社会・犯罪組織としての幇(ex.チャイニーズ・マフィア)がある。


 宗族が血縁を基盤として、農村を活動地域にし、祖先祭祀・血族の繁栄を目的とした宗教的・家族的性格を有し、儒教的倫理のうち、「孝」(生まれながらの義務であって、祖先・血族・家族への義務)を重んじる。

 これに対して、幇は、利害・職業・出身地を基盤として、都市を活動地域にし、経済的利益・相互扶助を目的とした契約的・義兄弟的性格を有し、儒教的倫理のうち、「義」(後天的な義務であって、仲間への忠誠義務)を重んじる。


 宗族と幇の利害が対立した場合には、どうするのか。

 一般論としては、その人がどちらの世界で生きているか、どちらを頼りに生きているかによって、優先順位が付けられる。

 しかし、幇は、いわば「兄が弟を庇い、弟が兄を支える」かの如く、組織的庇護と恩恵を与える見返りに組織への忠誠が求められる。幇は、「義のために身を捨てる」ことが求められるわけだ。

 幇は、秘密主義的・閉鎖的で、何よりも裏切りが禁止される。幇の掟(おきて)は、絶対であって、裏切りは、最悪の場合には死の制裁を受けるので、宗族と幇の利害が対立した場合には、幇を優先するのが通常らしい。

 日本の暴力団と幇は、由来等が異なるが、犯罪組織としての幇(ex.チャイニーズ・マフィア)は、暴力団に近いイメージだと思えば、理解しやすいと思う。


 宗族と幇の対立よりも、むしろ幇同士の対立こそが支那の政治を陰から動かしてきたと言っても過言ではない。

 例えば、漢では、皇帝の母方の親族(外戚)と、宮廷内の宦官(かんがん)が権力闘争を繰り返した。外戚も、宦官も、それぞれ幇(派閥)を形成し、お互いに粛清と報復を繰り返した。

 科挙による官吏登用が進むと、官吏たちもそれぞれ同郷、学派、門閥等によって幇(派閥)を形成し、党争を繰り返した。

 律令制が表の制度であるとすれば、幇(派閥)は裏の非制度であって、よく言えば、政治的ダイナミズムを生む一方で、政治腐敗と政治的停滞を生んだ。


 この政治構造は、中国共産党一党独裁になった現代においても変わっていない。党内には、人脈・出身地・キャリア・利害で結び付いた幇(派閥)が形成され、リソース(ポスト、予算、推薦など)を巡って幇(派閥)が対立抗争を繰り返し、粛清と報復が行われている。


 他方で、宗族と幇は、支那の人治主義・家産官僚制を持続させ、法治主義・依法官僚制の発展を阻害してきた。

 すなわち、宗族は、公私混同を生み、公職を私物化させる。幇は、法よりも幇の掟を優先させ、法を枉(ま)げる。

 換言すれば、支那では、血縁(宗族)と義理(幇)が社会の道徳的秩序を形づくり、支那の政治文化の支配原理だった。

 秦は、法家の思想に基づき法による統治を実現しようとしたが、結局、法治の名による人治だったし、唐は、律令制を確立し、明や清は、大明律や大清律例を制定するなどしたが、結局、法治主義・依法官僚制を実現することができなかった。忠誠の対象が法ではなく、幇の掟だったからだ。


 さて、上記の記事にも触れられているように、粛清された中国軍の最高幹部9人は、習近平国家主席をトップとする福建閥と呼ばれる幇のメンバーだからこそ、出世できたのに、幇の掟を破って目に余るほどの私腹を肥やし、綱紀粛正を掲げる習主席の面子を潰したが故に(これは、表向きの理由で、他に理由があるかもしれない。)、粛清されたと思われる。


 古代より、支那の政治は、まったく進歩がなく、同じことを繰り返し、いつまで経っても人治主義・家産官僚制のままだ。

 中国は、一見すると、ハイテクが進み、近代的ではあるが、実質的には前近代社会のままなのだ。これを見誤ってはならない。



 

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