「スリランカ」と言ってもピンとこなくても、「セイロン紅茶」ならば知っているという人もいよう。又は日テレ『ズームイン朝』の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」のウィッキーさんを思い出す人もいるかも知れない。
スリランカの旧称は、セイロンだった。1948年2月4日にイギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立し、1972年にスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年からスリランカ民主社会主義共和国となった。
現在、スリランカは、大雨による洪水と土砂崩れで、死者が330人を超え、被災者が111万人で、非常事態宣言が行われている。
12月2日、我が国は、スリランカ政府の要請を受けて、緊急援助物資の供与、国際緊急援助隊・医療チームの派遣を決定した。
手厚い人道支援をしてほしい。
というのは、我が国は、スリランカに恩義があるからだ。
すなわち、1951年、サンフランシスコ講和会議では、戦勝国から日本に対する巨額の賠償請求案や米・英・ソ・中による日本の分割統治案が優勢だった。
ところが、会議の冒頭、演壇に立ったセイロン代表J.R.ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ民主社会主義共和国第2代大統領)の演説で、会議の雰囲気が一変し、敗戦国日本を穏便に扱おうということになり、サンフランシスコ講和条約締結につながった。
この演説の一部を抜粋しよう。日本の小中学校で教えるべきだ。
「なぜアジアの人々は、日本が自由であるのを熱望するのか?それは我々が日本と長い年 月に亘る関係があるためであり、それは、被支配諸国であったアジア諸国の中で、日本が 唯一強く自由であった時、そのアジア諸国民が、日本を保護者として、また友人として仰 いでいた時に抱いた日本への尊敬の念からです。
思い起こせば、さる大戦中に、日本の唱えたアジア共存共栄のスローガンが人々の共感 を得、自国が解放されるとの望みで、ビルマ、インド及びインドネシアの指導者の中には 日本に呼応した人達もいたのです。」
「わがセイロンの人々は幸運にも直接に侵略されなかったが、空襲や東南アジア軍の下、大量の数の軍隊の駐留による被害など、また連合軍に対する唯一の生ゴムの生産者であり、 我が国の重要産業品である生ゴムの大量採取による損害に対して我国は、当然賠償を求め る権利を有するのです。しかし、我々はその権利を行使するつもりはありません、なぜな らアジアで何百万人もの人達の命を価値あるものにさせた大教導師の“憎しみは憎しみによ っては止まず、ただ愛によってのみ止む” との言葉を信じるからです。」
「この条約は敗北した者に対するものとしては寛容な内容でありますが、我々は日本に対して友情 の手を差し伸べましょう。人類の歴史のこの章をとじるにあたり、今日書いているこれが最後のペー ジとなることでしょう。そして、明日からまた新しい歴史の章の第一ページを記すにあたり、日本人と 我々が共に手を携えて人類の生命の威厳を存分に充たし、平和と繁栄のうちに前進することを祈 念する次第であります。」
演説では、ソ連批判も行われている。ぜひ下記の全文を読んでいただきたい。
なお、J.R.ジャヤワルダナ氏は、死去に際し献眼し、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言通り、左目の角膜は長野県の女性に移植された。
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