星の瞬きは何を語るか

 現在、過去、未来を自分の体を基準に並べると、現在は足元に、過去は背後に、未来は眼前に広がっていると考える人が多いのではなかろうか?


<現代人>   

 背後 足元 眼前  

 過去現在未来  


 ところが、高校時代に読んだ呉茂一訳のホメーロスの注によると、古代ギリシャ人は、現在は足元に、過去は眼前に、未来は背後に広がっていると考えていたそうである。


<古代ギリシア人>  

 背後 足元 眼前  

 未来現在過去  


 これは、奇(く)しくも日本語と共通している。例えば、「100年」と言えば、過去を表し、逆に、「100年」と言えば、未来を表すからである。  


 古代ギリシア人も日本人も、次のような身体的時間感覚を持っていたと言えるのではなかろうか。


 すなわち、我々人間は、決して未来を見ることができず、後ろ向きで未来に向かって進んでおり、一歩間違えば奈落の底へ転落するおそれがあるため、足元の現在をしっかりと確かめながら少しずつ後ずさりしながら歩みを進めるしかない。その際、かつて船乗りが星(過去の光)を頼りに方角を確かめながら船を航行させたように、過去から先人の智慧を学んで自らの歩むべき道・方向を選択しなければならないと考えていたのではないか。  


 ところで、星と言えば、城達也さんのナレーションを思い出す。

「満点の星をいただく果てしない光の海を、 豊かに流れゆく風に心を開けば、 煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、 なんと饒舌なことでしょうか。」

 海外旅行なんて夢のまた夢の時代、城達也さんのラジオ深夜番組「ジェットストリーム 」を聴きながら、勉強していた。曲の合間に詩的なナレーションが流れてくる。見たこともない海外の情景を夢想していると、いつの間にか眠りこけてしまい、朝になって勉強のノルマを達成できていないことに気づいて、よく後悔したものである。

おっちゃんの思い出話は、これぐらいにして、話を戻そう。


 ソクラテスは、「ソクラテス以上の知者はいない」という神託の意味が分からず、世に知者と呼ばれる人たちとの会話を通じて、彼らが何も知らないのに知っていると思い込んでいるのに対して、ソクラテスは自分が無知であることを知っていること(無知の知)、ただその一点において優れていることに気付き、神託の真意は、ソクラテスを通じて全ての人間の無知を悟らせることにあると考えるに至ったという話は、有名である。  


 我々人間が無知なる存在であることを深く自覚するとき、大いなる自然に畏敬と感謝の念を抱き、先人たちが試行錯誤しながら作り上げてきた歴史、伝統、慣習、風俗、習慣、道徳、言語等の自然発生的秩序を大切に守りつつ、これらを次の世代に受け渡すとともに、これら先人の智慧から学んで歩むべき道を選択し、現在にマッチしない点は慌てず焦らず試行錯誤しながら少しずつ改良を重ねていかねばならないのだ。  


 ところが、現代人は、ヘブライズム由来の進歩主義史観とデカルト主義的合理主義・設計主義に知らず知らずに毒されて、未来が眼前に広がり、人間が未来をいかようにも設計できると不遜にも思い上がっているように思えてならない。  


 法令の改正を例に考えてみよう。


 蛍光灯や水道の蛇口のパッキンが古くなったら、自分で交換するように、法令が古くなって時代にそぐわなくなると、法解釈によって補うのが原則であるが、家自体が老朽化した場合にはリフォームしたり建て替えたり更地(さらち)にしたりするように、法解釈で補うにも限界がある場合には、法令を一部改正したり全部改正したり廃止したりすることになる。では、法令を改正したり、廃止したりするにはどうすればよいのか?  

ある法令Aを改廃するには、その法令Aを改正又は廃止するという内容を含む法令Bの制定によって行われる


 法令の内容を変更するやり方には2つの方式がある。

①元の法令Aには変更を加えずに、「修正第○条」という風に、 別に新たな内容を定めて元の法令Aの規定を上書きする法令Bを制定する追加(増補)方式(アメリカ)と、

②元の法 令Aを改正する法令Bの制定によって元の法令Aそのものを変更する溶け込み方式(ドイツ、フランス、日本)がある。


 ①は、新たな法令Bの内容が分かりやすい反面、元の法令Aの内容と新たな法令Bの内容に矛盾が生じた場合の効力 関係が分かりにくく、また、何度も追加されると法令の数が膨大になって法令の全体像を把握することが困難になる。

 これに対して、②は、元の法令Aそのものを変更する(換言すれば、元の法令Aの条文を書き換えてしまう。)ので、 現時点での法令Aの内容が一目瞭然になる反面、変更する箇所と変更内容を定めた法令Bだけを見てもどのような内容 なのかを把握することが困難であって、元の法令Aと法令Bを見比べる必要がある。

 我が国では、大陸法系のドイツ・フランスと同様に、明治以来、②の溶け込み方式を採用している(溶け込み方式を 根拠付ける法令及び溶け込み方式の基準を定める法令はない。)。ただし、戦前の旧皇室典範の改正は、①追加(増補) 方式が採用されていた。


 ②の溶け込み方式は、一部改正の場合、元の法令Aを改正する法令Bの本則において、元の法令Aの題名を挙げて、一部改 正法令であることを明示した上で(これを改正文という。)、元の法令Aの条文の変更する箇所と変更内容を示して、 改正することを指示する形(これを改め文方式と呼ぶ。)で行われている。具体的には、すでにある条文の内容を変更 する場合には、「〜に改める」、新しく内容を追加する場合には、「〜を加える」、削除する場合には、「〜を削る」とい う形で、具体的にどのように改正するのかを指示することになっている。


 この改め文方式には、法制執務(立法技術)特有の一定の知識・技術を要するため、議員の中には難しいとおっしゃる方がおられるようである。そのため、 最近では、分かりやすさを重視して、改め文方式で改正を行いながらも、議会の参考資料として、新旧対照表(新旧対照条 文)が添付されるようになっている。


 そこで、いっそのこと新旧対照表形式で法改正をすればよいのではないかというご意見が出てきた。


 この点、平成14年12月3日衆議院総務委員会会議録によると、内閣法制局総務主幹横畠裕介氏は、次のように述べて、内閣法制 局として改め文方式を堅持することを示している。

「いわゆる改め文と言われる逐語的改正方式は、改正点が明確であり、かつ簡素に表現できるというメリットがあること から、それなりの改善、工夫の努力を経て、我が国における法改正の方法として定着しているものと考えております。

 一方、新旧対照表は、現在、改正内容の理解を助けるための参考資料として作成しているものでございますが、逐語的改 正方式をやめて、これを改正法案の本体とすることにつきましては、まず、一般的に新旧対照表は改め文よりも相当に大部 となるということが避けられず、その全体について正確性を期すための事務にこれまで以上に多大の時間と労力を要すると 考えられるということが一つございます。また、条項の移動など、新旧対照表ではその改正の内容が十分に表現できないと いうこともあると考えられます。このようなことから、実際上困難があるものと考えております。

 ちなみに一例を申し上げますと、平成十一年でございますが、中央省庁等改革関係法施行法という法律がございました。 改め文による法案本体は全体で九百四十ページという大部のものでございましたけれども、その新旧対照表は、縮小印刷を させていただきまして、四千七百六十五ページに達しております。これを改め文と同じ一ページ当たりの文字数で換算いた しますと、二万一千三百五ページということになりまして、実に改め文の二十二倍を超える膨大な量となってしまう、こう いう現実がございます。」


 ところが、平成28年、河野太郎内閣府特命担当大臣は、国家公安員会関係警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査 等に関する法律施行規則の一部を改正する規則(平成二十八年国家公安委員会規則第五号)において、改め文方式を採らずに、国として初めて新旧 対照方式を採用して改正を行なった。

 河野大臣は、「我が国の法令改正は、明治以来伝統的に「甲を乙に改める」という「改め文」方式でや っておりましたが、この「改め文」方式は改正後どういう条文になっているかよくわからないとずっと私思っておりました ので、法律、政令等はなかなか難しいのですけれども、府省令などは所管大臣が決められるということでございますので、 国家公安委員会委員長として、今回、国家公安委員会規則を「新旧対照表」方式で改めるということをやりました。」と説明 している(平成28年3月25日記者会見)。


 法制執務(立法技術)を固定的に考えてはならないが、明治以来、先人たちが試行錯誤して築き上げてきた法制執務(立 法技術)は、先人たちの叡智の結晶であって、慣習法であると言っても過言ではない。横畠氏が述べるように改め文方式に は合理性があるのである。一大臣がよくわからないという理由で勝手に変更してよいものではないと考えるが、 如何なものであろうか。

 

 


  


 

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