裁判制度5

老先生 ローマ帝国時代に話を戻すとじゃな、先ほど、ローマ法をお手本にして、教義と矛盾しないように必要な修正を加えて教会法が形成されたという話をしたが、どのように修正したかを理解するためには、キリスト教会がどのような考えに基づいてどのように行動したかを知る必要があるので、しばらくの間、裁判制度から離れて、この点についておしゃべりするとしよう。


1 教会の行動原理

 キリスト教の神は、すべてのヒエラルキーの頂点に立ち、恐れに基づいて、ただひとり君臨する唯一絶対の男性神と信じられておった。聖書は、神を怖れよと繰り返し説いておる。例えば、「神を恐れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて」(伝道の書/コヘレトの言葉・十二・十三)、「誰を恐れるべきか教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカ伝・十二・五)。

 そして、イエスの復活の第一目撃者であるイエスの使徒とその正統な継承者を通してしか神を知ることができないから、人々を導けるのは、第一目撃者である「第一の使徒」ペテロとその正統な継承者である教皇のみである(グノーシス主義者は、マルコ伝やヨハネ伝を根拠に、第一目撃者はマグダラのマリアだと主張しておるが、異端であるとして排斥された。現在もローマ教皇の権威と至上権は、「第一の使徒」ペテロの正統な継承者である点に求められている。)として、教皇への絶対的服従を強いたんじゃ。例えば、91年頃〜101年頃に在位した教皇クレメンス1世は、「神は、命令を下し、逆らう者を罰し、従う者には報いる、万物の唯一の支配者である。その神の権威を代行するのが教会の指導者である。神が定めた権威者に逆らうことは、神に逆らうことと同じである。それが誰であろうと、死の罰を被るべきである。」と述べておる。

 また、1世紀の主教イグナティオスは、「主教は神の代理であり、あなた方(司祭)は、使徒の代理である。この人々なくして、教会は成り立たない」と述べ、聖職者の絶対的権威聖職者の序列(カトリック:司教・司祭・助祭、正教会:主教・司祭・輔祭というように、宗派によって異なる。)、聖俗の区別を重視しておる。これは、教皇をはじめとする聖職者と信徒と異教徒、男性と女性というように、人間に序列を付ける考え方でもある。現在のカトリック教会においても、女性(修道女)は、司教・司祭・助祭という聖職者にはなれないんじゃよ。

 要するに、神は絶対的権力を持っているのだから、神の代行者である教皇も神の名において絶対的権力を行使して逆らう者を殺してよいのだというロジックを押さえることが、十字軍や異端審問など、キリスト教会の様々な常軌を逸した行動を理解するツボじゃ。

生徒 えッ!?神と教皇への絶対的服従を求める恐怖支配こそが当時のキリスト教会の本質だと?

老先生 もちろんそれに尽きるわけではないがの。学校で教える「世界史」や「倫理」にはバイアスがかかっておるため、ここまで踏み込まないでオブラートに包んでおるから、高校生は、流れを読み取るのに苦労するし、無味乾燥で面白くないわけじゃ。

生徒 目から鱗が落ちました!

老先生 ふむ。このロジックが分かれば、中世が暗黒時代だと言われる理由もよく理解できるはずじゃ。


2 愚民化政策

 教会は、民衆を無知文盲状態に置いた方が教会の教化を受け入れやすくなり、神と教皇への絶対的服従を実現できると考えて、愚民化政策を行ったんじゃ。 もちろん逆らう者は殺した。

 すなわち、教会は、キリスト教に関係のない本を読むと信者たちが天国を瞑想しなくなるという理由で、膨大な書物を焚書し続けたんじゃ。例えば、391年、70万冊の蔵書を誇るアレクサンドリア図書館を焼き払い、人類の知的遺産である古代の貴重な書物が失われたんじゃ。398年、第4回カルタゴ公会議で、司教ですら異邦人の書物を読むことが禁止されたんじゃ。

 また、昔からある学問所を閉鎖することによって、俗人は教育を受ける機会を奪われ、聖職者だけが修道院で教育を受け続けたんじゃ。ラテン語の文法が苦手だったのか、590年に教皇になったグレゴリウス1世は、「私は正しい構文や格変化を軽蔑する。なぜなら、聖なる神の御言葉がドナトゥス(高名な文法家)の規則にしばられるなどもってのほかと思うからだ。」と述べ、ラテン語の習得に反対するとともに、聖職者以外の俗人が聖書を読むことすら禁止したんじゃ。「第一の使徒」ペテロとその正統な継承者である教皇を通してしか神を知ることができないので、俗人が聖書を読んで神と直接向き合うことは、断じて許されるべきではないからじゃな(これがのちの宗教改革へとつながるわけじゃ。)。ミサで使われる言葉は、分かりやすい方が良いとして4世紀にギリシャ語からラテン語に変わったが、ラテン語は、7世紀末には民衆に理解できない言葉となってしまったし、聖職者ですら理解できない者が多かったらしい。


3 自然科学の衰退

 このような愚民化政策の結果、自然科学は、大幅に後退してしまった。紀元前6世紀にピタゴラスが地動説を唱え、紀元前3世紀にはアリスタルコスが太陽中心説を唱え、エラトステネスが地球の大きさを測定し、紀元前2世紀にはヒッパルコスが緯度と経度を考案しておったというのに、教会のせいでこれらの自然科学が失われ、16世紀になってやっとコペルニクスが地動説を唱え、17世紀に太陽中心説を唱えたガリレオが異端審問にかけられて有罪判決を受けたんじゃからの。

 ローマ・カトリック教会がガリレオの有罪判決を取り消したのは、いつだと思うね?

生徒 さあ〜?

老先生 なんと1965年なんじゃ!開いた口が塞がらぬわい。

生徒 え〜ッ!?


4 科学技術の衰退

老先生 ところで、14世紀に流行した黒死病(ペスト)によって、ヨーロッパ全人口の3分の1から3分の2(約2000万人から約3000万人)が死亡したそうじゃ。

 従来、ペスト菌がネズミの体内で繁殖し、その血を吸った蚤が人間の血を吸ったときにペスト菌を吐き出したことによって感染が広がったと言われておったが(そのため、西洋ではネズミは嫌われものだったんじゃが、なぜウォルト・ディズニーがこのネズミをアニメの主役にしたのかと不思議だったんじゃ。一説によると、もともとはウサギだったのじゃが、版権を騙し取られてしまってウサギを使えなくなって、ネズミになったらしい。)、最近、シラミや人蚤が媒介して直接人から人へと感染が広がったという説が登場したそうじゃ。

 いずれにせよ、立派な上下水道・水流トイレが完備し、風呂好きだったローマ帝国時代に比べ、中世ヨーロッパは不潔極まりなかったことが黒死病流行の温床なんじゃよ。

 生ゴミや糞尿を窓から道路に捨てて(道路を歩く人が上から落ちてくる汚物を直に浴びないようにするために、女性の日傘と男性の帽子やマントが流行ったとすら言われておる。)、豚がこれを食べておったから、街中、ゴミや人と家畜の糞尿だらけ。

 このように公衆衛生が著しく低下した原因を作ったのも、教会なんじゃ。愚民化政策の結果、科学技術が廃れてしまって、上下水道やトイレが消えてしまっただけでなく(「すべての道はローマに通ず」と言われた道路網も荒れ果て、19世紀まで放置されておったんじゃ。)、肉体は軽蔑すべきものだから、体を洗ってはいけないと教えておったんじゃからの。

生徒 映画『テルマエ・ロマエ』を見たら、古代ローマ人たちが大の風呂好きなのに、どうして現代の欧米には風呂文化がないんだろうかと不思議に思っていましたが、教会のせいだったのですね!

老先生 その通りじゃ。風呂に入らぬから、体臭を紛らわすために、香水が発達したと言われておるの。高貴な人々は、臭い身体に大量に香水を振りかけておったそうじゃ。臭いを想像しただけで吐き気がするわい。

 近代になっても事情は変わらなかったようじゃ。例えば、ある本に、ルイ14世が作った豪華絢爛なベルサイユ宮殿にはトイレがないので、他人に野糞を見られないようするために女性のスカートを鳥かごのような木枠で膨らませる「パニエ」が生まれたのだとあったので、あのマリーアントワネットも野糞をしておったのか、「パニエ」が邪魔で自分ではお尻を拭けぬじゃろうにと余計な心配をしたものじゃが(笑)、本当は便座やおまるがあったらしく、従者が庭に汚物を捨てていたそうじゃ。悪臭を紛らわすために、庭に果樹園を作ったりしたと言われておる。国王の家族だけでなく、家来や使用人が数多くおったから、悪臭たるや凄まじかったじゃろうな。

 当時の作法書には、女性が舞踏会に参加した場合に尿意を催したらスカートを履いたまま庭の茂みで立小便をすべしとあったので、わしの心配もあながち間違ってはおらんかったようじゃわい。苦笑

侍女や小間使いが女主人のスカートの中に香水を必死に振りかけておったことじゃろう。笑

 王侯貴族が離宮や別荘を転々としておったのも、汚物が自然分解するまで間、悪臭やハエから逃げるためかも知れん。

生徒 なんだか100年の恋も冷めてしまいそうな話ですね♪笑

老先生 すまんすまん。笑   


5 歴史の改竄(かいざん)

 民衆が生活に不満を持ったとしても、愚民化政策によって無知文盲になっていたので、学問や科学技術が後退したことを隠して、昔はもっと酷かったが教会のおかげで着実に進歩しているのだと思い込ませることができたんじゃよ。歴史の改竄じゃ。聖アウグスティヌスの弟子オロシウスも『異教徒に反する歴史』で同様のことを述べておる。


6 経済の衰退

 教会は、経済も衰退させたんじゃ。6世紀、「転売目的で物品を買う者は、物品の種類を問わず、すべて商人と見なし、聖堂への立ち入りを禁ずる。」(グラティアヌス教令集)とされていたので、もともと商業は忌み嫌われておったんじゃ。金持ちは、自分の富を頼りにして、神をないがしろにするから、金持ちは不幸だが、貧しい人・飢えている人・虐げられている人は幸福であるというわけじゃ(ルカ伝・六・二十)。  

 ディアスポラのユダヤ人は異教徒であったが、「聖書の民」ということで信仰の自由を認める一方で、貿易商人であったユダヤ人から通行税等を取れるので、両者の利害が一致しており、共存しておったらしい。

 しかし、領内で働くにはキリスト教徒の誓約が必要になり、ユダヤ人は都市の商工業へと追いやられたんじゃが、11世紀から12世紀頃に人口が増えて都市に人口が流入すると、ギルド(商工業者の組合)が結成され、商売繁盛を祈って守護聖人を祭るようになったので、ユダヤ人は商工業からも追い出され、金融業へと商売替えしたんじゃ。そして、キリスト教では高利貸しが禁止されており(3世紀、教皇ヒッポリトゥスは高利貸しを禁止しているし、その後も禁令は繰り返し出されたそうじゃ。)、教会は、利子を取ることを非難しつつ(そのため、キリスト教徒は貸金業をやらなくなった。)、異教徒ユダヤ人に貸金業を認めて、ピンハネをしておったんじゃ。

 ところが、黒死病が流行ると、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだからだとまことしやかに囁かれ、ユダヤ人を迫害すれば借金を帳消しにできるので、領主は、喜んでユダヤ人の財産を没収して領外へ追放したんじゃ。

生徒 どうして利子を取ることが禁止されたのですか?

老先生 時間を支配するのは全知全能の神である以上、時間の産物である利子は神の物なので、商人が利子を取るべきではないからじゃ。お金に困っている人の弱みに付け込んで利子で金儲けをするのはけしからんという感情もあったのじゃろう。

 聖書自体は、利子について肯定しているように思える章節(申命記二十三・十九〜二十、ルカ伝六・三十五、ルカ伝十九・二十三)がある一方で、否定する章節(出エジプト記二十二・二十五、レビ記二十五・三十五〜三十七)もあって、教会内でも論争があったらしいがの。

生徒 へぇ〜。では、当時の人々はみんな貧しかったのでしょうか?


7 教会の腐敗

老先生 いやいや、とんでもない。 金持ちは不幸だと説きながら、教会は、巨万の富を築き続けたんじゃ。教会の領地は、西洋の4分の1から3分の1を占めていたと言われておる。教会領は、無税で軍役を課せられることもないので、丸儲けじゃな。他にも、教会は、領主や民衆から寄進を受けたり、裁判で財産を没収したり罰金を科したり、免罪符を売ったり、聖職売買をしたりして儲けておった。12世紀に聖職者の結婚が禁止されたんじゃが、その理由というのが、教会の資産が聖職者の相続人に奪われるのを防ぐためらしい。

 もちろん教会が巨万の富をもつのはおかしいではないかという批判も当然あったんじゃが、それがイエス・キリストの理想なんだとして、1326年、ヨハネス22世は、イエスと十二使徒が清貧だったと意見する者を異端者とする大勅書を布告したというのだから驚きじゃ。

 司教個人が封建領主として領地を持っていることも多く、国王から軍役を課せられたときには、伯爵・男爵に義務を押し付けたそうじゃ。富裕な司教と司教代理の収入の差は、300倍から1000倍にも上ったそうじゃよ。

 教皇ともなれば、栄耀栄華は思いのままじゃから、教皇の座を金で買ったり、教皇を殺害したりすることもしばしばあったそうで、例えば、891年から903年までのたった12年間だけでも、終身職である教皇が10人も交代しておるんじゃ。

 セルギウス3世は、2人の前任教皇を殺害して、904年に教皇になっておる。この教皇セルギウス3世は、教皇庁に連れ込んだ妾マロツィアとの間に子供をもうけ、マロツィアはローマ市の事実上の支配者となるとともに、その子ヨハンネス11世を教皇にしたんじゃから、呆れるわい。かような例は枚挙にいとまがない。

生徒 教会内部は、ものすごく腐敗していたんですね。。。


8 教皇の権威低下と世俗権力の台頭

老先生 そうじゃの。それは教会の弱体化を意味するので、世俗権力が巻き返しを図るチャンスでもあったんじゃ。

 例えば、フランス王フィリップ4世は、イギリスとの戦争の経費を確保するため、フランス領内の聖職者領(教会領)に課税しようとしたところ、教皇ボニファティウス8世がこれを禁止したので、フリップ4世が教皇庁への献金を停止したんじゃ。教皇庁への献金に苦しんでいたフランスの民衆は、これを喜び、国王を支持して拍手喝采。

 そこで、1302年、教皇ボニファティウス8世は、「世俗の権力者が罪を犯した場合は、霊的権力者が裁きを下す・・・。だが、至高の霊的権力者が罪を犯した場合は、人ではなく神だけが裁きを下せる・・・。したがって、ここに布告し、宣言し、明言し、断言する。万人はローマ教皇に従ってこそ救済を得られるのである。」という大勅書を布告して、教皇である自分よりも偉い人間はいないから、万人は自分に従え、自分を責められるのは神だけだと言い放ったわけじゃ。

生徒 なるほど、この考え方は、教会初期からずっと一貫していますね!

老先生 うむ。1303年、フランス軍がローマ郊外のアナーニの別荘にいた教皇ボニファティウス8世を襲撃して軟禁し、殴るわ、教皇の象徴である三重冠と祭服を剥ぎ取るわで退位を迫ったけれども、断固として拒否し、殺されかかったところをアナーニ市民に救出されてローマに戻ったのじゃが、悔しさのあまり憤死したと言われておる。

 その後、フランス人でボルドー司祭だったクレメンス5世が教皇に選ばれると、1309年、フランス王フリップ4世は、教皇クレメンス5世に圧力をかけて、フランス南部アヴィニヨンに教皇庁を移させたんじゃ。これが、1377年まで約70年間続いたいわゆる「教皇のアヴィニヨン捕囚」じゃ。

 この「教皇のアヴィニヨン捕囚」がやっと終わって、教皇がローマに戻ったと思ったら、今度は、1378年から1417年まで、ローマとアヴィニヨンに2人の教皇が君臨して争うといういわゆる「教会大分裂」が起きたんじゃ。詳細は省くが、これは、教義上の争いではなく、単なる権力闘争で、どちらも決められた枢機卿のすべてから選出されたわけではなかったので、お互いに偽物だと主張して破門し合う始末(現在のカトリック教会は、ローマの教皇を正統であるとし、アヴィニヨンの教皇を「対立教皇」として扱っておる。)。各国王も、どちらの教皇側につくか、旗色を鮮明にしなければならず、それが結果的には、近代国家の形成を促進するという思わぬ副次的効果を生むことになるんじゃ。

 同時期に、フランス王位をめぐってイギリスのプランタジネット家とフランスのヴァロワ家が争って、フランスの領主たちも二派に分かれて、1339年から1453年まで断続的にフランス国内で戦争を行ったいわゆる「百年戦争」は、フランス内のイギリス王領がカレーを残して消滅する形で決着が付いたが、結果的に、封建領主の没落を招いて国王による統合が進んで、絶対君主制を準備することになるんじゃ。これだけ戦争が長引いたのは、「教会大分裂」によって調停役を務めるべき教皇の権威が失墜したことが大きかったと言えるじゃろう。

生徒 当時の熱心な信者さんであっても、教皇の権威に疑問を抱いたかもしれませんね。


9 教皇の権威回復と十字軍

老先生 うむ。こんな風に見てくると、教皇の権威のピークは、11世紀末から13世紀末までの約200年間に7回にわたって行われた十字軍かも知れんの〜。特に第1回十字軍が教皇の権威が最高潮に達した時じゃろう。時代が多少前後するが、しばらく十字軍について話そう。

 一般的には、この十字軍の背景には、農業生産性の向上に伴う人口増加があると言われておる。

 従来、耕地と休耕地を1年ごとに入れ替える二圃(にほ)制を採っていたのが、10世紀から11世紀にかけて、春耕地(大麦、燕麦など)と秋耕地(小麦、ライ麦など)と休耕地(家畜の共同放牧地)に三分割する三圃(さんぽ)制が普及することによって、肥料をあまり使わずに地味(ちみ)を維持することができ、農業生産性が向上したんじゃ(とはいっても、ジャガイモやトウモロコシなどが大航海時代にもたらされるまではヨーロッパが貧しかったことに変わりがないがの。)。また、森林や原野が開墾され、牛や馬に引かせる鉄製の重量有輪犂(すき)により、重く堅い土壌を深く耕すことができるようになったことや、水車が普及したことも、大きい。一説によると、気候の温暖化にも恵まれた結果、穀物の収穫高が3〜4倍になったそうで、農民の可処分所得が増え、人口も増加したそうじゃ。

 なお、増えた人口は、農業に携わるだけでなく、都市へも流れ、商人や職人という新しい階級が生まれたんじゃ。商人は、アラビアやギリシャからアラビア語訳されたラテン語の文献をもたらし、これらの文献がラテン語に再翻訳された結果、アリストテレスの著作が西欧に出回り、スコラ哲学を生んだんじゃ。スコラ哲学は、教会の在り方に疑問を呈するようになるんじゃよ(当然、教皇は、1210年・1215年にアリストテレスの著作を教材として用いることを禁止し、1272年、神学問題の討論も禁止したがの。)。また、修道院で聖職者にだけ教育が許されていたのに、商人や職人向けの初等学校だけでなく、ボローニャ、パリ、オックスフォードなどの都市に大学が建てられ、『アーサー王の円卓の騎士団』や『ニーベルンゲンの歌』などの文学やゴシック建築が生まれたんじゃ。神と真摯に向き合いたいと願う人々は、徐々に教会から離れ、様々な異端思想が生まれてきたんじゃ。

生徒 へぇ〜。長年抑圧されてきた社会が活況を呈するようになったんですね♪

老先生 うむ。じゃが、それは、神と教皇への絶対的服従による恐怖支配が弱まることでもあったんじゃ。そこで、再び教皇への絶対的服従を確立しようとして行われたのが十字軍じゃ。

 そのきっかけは、イスラーム教徒であるセルジューク朝トルコの侵攻に苦慮していたビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世の要請があったからなんじゃが、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝や国王と争っていた聖職叙任権闘争を有利に運ぶための起死回生の一手が十字軍だったのではないかと思うておる。

生徒 どういうことですか?

老先生 476年に西ローマ帝国が滅亡したため、教会は、ローマ皇帝の庇護を受けることができなくなったので、教会が世俗の権力と富を手に入れるためには、ゲルマン王国の国王たちや領主たちと手を結ぶ必要があった。800年、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が教皇から戴冠されて再興した西ローマ帝国の皇帝になり、962年、東フランク王国のオットー1世が教皇から加冠されて神聖ローマ帝国の皇帝になったことがその典型例じゃ。

 その政治的妥協の結果、ローマ・カトリック教会の大司教・司教・修道院長等の高位聖職者の任免権は、世俗の権力である神聖ローマ皇帝に握られ、下位聖職者の任免権は、イングランドやフランス等の国王や領主に握られてしまったんじゃ。

生徒 神の代行者である教皇は、さぞや悔しかったことでしょうね。

老先生 全くその通りじゃ。そこで、世俗の権力が聖職叙任権を有することが教会堕落の原因であるとして、聖職叙任権を教皇の手に取り戻そうとしたのが11世紀から12世紀にかけて行われた聖職叙任権闘争なんじゃ。

 1075年、教皇グレゴリウス7世が世俗権力の聖職叙任権を否定する決定をしたところ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、逆に教皇グレゴリウス7世の廃位を迫ったことから、教皇は、皇帝ハインリヒ4世を破門したんじゃ。帝国内の求心力を失ったハインリヒ4世は、1077年、極寒のアルプスを越えて、カノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世に面会を求め、雪の中、修道衣一枚に素足で3日間立ち尽くして教皇に赦しを乞うて、破門を解いてもらったんじゃな。これが世に有名な「カノッサの屈辱」じゃ。

生徒 文字通り、屈辱ですね!

老先生 うむ。この恨み晴らさずにおけようかと、皇帝ハインリヒ4世は、帰国後、反撃を開始し、1080年、再び教皇グレゴリウス7世の廃位を決議して、クレメンス3世を教皇として擁立するとともに、1082年、軍隊を率いてローマへ進軍し、教皇グレゴリウス7世をサレルノへ追放したんじゃ。

 その結果、グレゴリウス7世とクレメンス3世という2人の教皇が対立することになるんじゃ(ローマ・カトリック教会では、グレゴリウス7世が正統で、クレメンス3世は対立教皇であるとされている。)。

 しかし、外に敵を作って人々の不満や関心をそらせることは、為政者の常套手段。1096年、教皇ウルバヌス2世が「剣を抜かず敵を殺さぬ者に呪いあれ」とキリスト教徒に呼び掛け、これに呼応して参集したのが第1回十字軍なのじゃ。

 ところで、1054年に教会が東西に分裂してできた東方正教会は、ローマ教皇にとっては自らの権威を否定し侮辱するものじゃった。そこで、行き掛けの駄賃とばかりに、第1回十字軍は、ビザンツ帝国の第二の都市ベオグラード(現在、東欧のセルビア共和国の首都)を略奪したんじゃ(第4回十字軍は、聖地エルサレム奪還に向かわずに、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを略奪占領しておる。)。

 そして、第1回十字軍は、1098年、聖地エルサレムを占領し、1099年、エルサレム王国を建国したもんじゃから、聖戦に勝って聖地奪回に成功したローマ教皇の権威と人気は否でも応でもうなぎ上り。

 その結果、1122年、ヴォルムス協約が成立して、神聖ローマ皇帝が教皇の聖職叙任権を認めて、聖職叙任権闘争に終止符が打たれたんじゃ。

 十字軍は、バラバラになりかけた西欧をキリストの名の下に一つにまとめたが、エルサレム占領はほんの一時にすぎず、異教徒をカトリックに改宗することもできずに失敗に終わって、再び教皇の権威は低下したんじゃ。また、十字軍は、現在まで中東にその禍根を残すことになったのじゃ。

生徒 十字軍って、残虐の限りを尽くしたそうですね。。。

老先生 そうらしいの。。。最近では、アラブから見た十字軍の研究も進んでおるようじゃ。


10  内なる敵

 十字軍が失敗して外に敵を見つけることができなくなったんで、内に敵を見つければよいということで、気に入らない者を片っ端から攻撃するようになったんじゃ。

 すなわち、十字軍で活躍したテンプル騎士団が、教皇とフランス国王の標的になったんじゃ。テンプル騎士団は、正式な修道会で、この騎士団の騎士は修道士でもあったんじゃ。テンプル騎士団に入団する際には、この世の栄華を捨てる証しとして私有財産を修道会に寄進して、清貧・貞潔・従順の誓いを立て、決して降伏せず、戦死こそが天国の保障であると考えて軍事教練に励んだことから、最強の騎士団との誉れが高かった。王侯貴族からの寄進も多く、現金を持って巡礼をするリスクを回避するための自己宛為替や預金通帳の原型を作ったのもテンプル騎士団だと言われておる。

 フランス王フィリップ4世は、イギリスとの戦争によって多額の債務をテンプル騎士団に負っていたことから、これを帳消しにして財産を奪うべく、1307年、テンプル騎士団に異端の汚名を着せて、弾圧を開始し、1312年、教皇クレメンス5世もこれに賛同して、テンプル騎士団を禁止し、結局、騎士団の莫大な財産は没収され、騎士団長たちは火炙りにされて、壊滅させられたんじゃ。教皇に逆らう者は、同じキリスト教徒であっても殺すわけじゃ(現在のカトリック教会は、テンプル騎士団が異端者ではなかったことを認め、名誉を回復しておる。)。

生徒 映画『ダ・ヴィンチ・コード』や『ナショナル・トレジャー』に出てくるテンプル騎士団にそんな過去があったなんて。。。

老先生 うむ。我が国では、十字軍と言えば、エルサレム奪回に向かったものだけを指すように思われがちじゃが、実は、南フランスのカタリ派と呼ばれるキリスト教の異端者に対する3次にわたる討伐十字軍(アルビジョア十字軍)もあったんじゃ。

 カタリ派(カタリとは、ギリシャ語で「清浄なもの」を意味する「カタロス」に由来する。南フランスの都市アルビに因んでアルビジョア派とも呼ばれる。)は、カトリック教会の堕落に対する反動から生まれたものらしく、禁欲的で、女性も聖職者になれるし、ユダヤ人も迫害されることなく、領主から経済顧問を任されたり司教になる者もいたそうで、農奴もなく、南フランスは、ローマ法で治められた非常に文化的・経済的に発展した地域だったらしい。当時としては理想郷のように思われたらしく、民衆に大変人気があったそうじゃ。

 しかし、カトリック教会としては、断じて異端者カタリ派の拡大を容認するわけにはいかぬ。フランス全土を手中に治めたいフランス王フィリップ2世と利害が一致した結果、1208年、教皇インノケンティウス3世は、十字軍の兵士になった者には、免罪と永遠の救済が約束されるだけでなく、異端者とその支持者の土地と財産を与えると呼びかけたものじゃから、討伐十字軍は、1209年から20年間にわたって残虐非道の限りを尽くしたんじゃ。どうやってカトリックとカタリ派を見分けたらいいのですかと問われた指揮官たる教皇特使は、「全部殺してしまえ!見分けるのは神だから。」と答えたそうじゃ。一説によると、100万人が虐殺されたらしい。

 そして、1229年に和平協定が結ばれ、南フランスを治めていたトゥールーズ伯がフランス王への服従とカトリックへの復帰を約束して、廃墟となった南フランスがフランス王の版図に組み入れられたんじゃ。 しかし、その後も南フランスではカタリ派を弾圧するための異端審問がしつこく続けられたんじゃ。つまり、拷問が続けられたわけじゃな。

 テンプル騎士団への弾圧にせよ、カタリ派への弾圧にせよ、教会の内部問題に世俗権力を利用すること自体、教皇の権威が低下した証しと言えるの。

生徒 南フランスというと、温暖な気候と陽光が眩しく輝く美しい海を連想し、明るいイメージがありますが、そんな暗い歴史があったんですね。。。

老先生 そうじゃの。。。

生徒 神は絶対的権力を持っているのだから、神の代行者である教皇も神の名において絶対的権力を行使して逆らう者を殺してよいのだというロジックで教会が行動していたことがよく分かりました。

源法律研修所

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