1月を正月と呼ぶのはなぜか?

謹賀新年

 つつしんで初春のお慶びを申し上げます。


 新年早々、駄文をご笑覧下さいまして、誠にありがとうございます。毎度、愚にもつかない話ばかりで恐縮ではございますが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 令和二年 元旦

源法律研修所 所長 久保 賢高


 ご意見・ご感想は、いつも通り、下記のメアドまでお寄せ下さい。スパム対策として、大文字にしております。お手数とは存じますが、半角小文字にして下さいますようお願い申し上げます。 MINAMOTO.KUBOSENSEI@gmail.com


 さて、子供の素朴な疑問というのは恐ろしいもので、当たり前に思っている物事の理由を突然訊ねられて答えに窮することがございます。昔、リアルタイムで見ていたテレビアニメ『一休さん』にも、「どちて坊や」という渾名(あだな)の子供が、シリーズ中盤からしばしば登場し、「どちて?どちて?(どうして?どうして?)」としつこく訊ねるものですから、さしもの一休さんもたじたじとなって、どちて坊やを見かけるや否や一目散に逃げ出す始末。

 このブログをお読みの皆さんの中にも、「どうして1月を正月って言うの?」と訊かれて難儀なさる方もいらっしゃるかも知れませんので、ご参考までに、私なりの回答を書き留めておきます。

 結論だけをお知りになりたい方は、下へスクロールしていただければ、3の所で太字にしております。

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1 正月の定義

 「正月」は、太陰暦(たいいんれき)1月の別名だ(「太陰」とは、太陽に対して、月を意味する。)。今では、太陽暦の1月をも「正月」と呼ぶようになったので、1月を「正月」と表記している自治体の例規も少なからずあるが、後述するように、王朝交替を前提とする「正月」は、必ずしも縁起の良いものではない。正しく「一月」又は「1月」と表記するのが望ましい。


 よく知られているように、明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)により、太陽暦が採用され、明治5年(1872年)12月3日をもって明治6年1月1日と定められるまでは、我が国では太陰暦が用いられていた(ちなみに、この「改暦ノ布告」に因(ちな)んで、昭和63年(1988年)、全国団扇扇子カレンダー協議会によって、12月3日は、「カレンダーの日」と定められた。)。


 それ故、明治5年12月2日以前の国の法令の中には、太陰暦に基づき「正月」という文言が用いられることがあったようで、現行法上、船舶法の附則第36条の「明治三年正月二十七日布告商船規則」という記載にその名残を留めている。


cf.1明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)

  「今般(こんぱん。このたびという意味。)太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行(ごはんこう。「頒行」とは、広く世間にわかち、ゆきわたらせるという意味。)相成候ニ付(あいなりそうろうにつき)来(きた)ル十二月三日ヲ以(もっ)テ明治六年一月一日ト被定候事(さだめられそうろうこと)」(ルビ・注:久保。)

cf.2船舶法(明治三十二年法律第四十六号)

附則第三十六条 明治三年正月二十七日布告商船規則、同十二年第五号布告、同年第十九号布告、同十四年第十二号布告其他ノ法令ニシテ本法ノ規定ニ牴触スルモノハ本法施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス

(下線:久保)


2 太陰暦

 では、そもそもなぜ太陰暦で1月のことを「正月」と呼ぶのだろうか?

この謎を解くためには、遠回りだが、太陰暦について少し理解する必要がある。余談を交えて簡単に説明する。


 現在、我々が使っている太陽暦は、地球が太陽を一周する日数(公転周期)を基準にした暦(こよみ)だ。太陽は1日1度、1年で約365.25度移動し、元に戻る(周天)が、太陽の運行を日々観測することは、天文知識がない古代の庶民には無理だし、そんな暇人はいない。単純明快な月の満ち欠けを基準にした太陰暦の方が分かり易かった。そのため、昔から支那(chinaシナ。中国の地理的呼称。)では、太陰暦が用いられてきたわけだ。


 しかし、月の満ち欠け(新月から次の新月までは約29.5日)を基準に1年を12等分にすると、余りが生じるので、ひと月の期間が30日の月(大の月)と29日の月(小の月)を設けて調節したが、誤差が大きく、次第に季節に合わなくなってくる。具体的には、1年で11日、3年で1か月ほど太陽の運行とずれるために、どうしても暦の修正が必要になる。そこで、3年に1回の割合で、1年を13か月にしてこれを調整する閏月(うるうづき)を設けるわけだ。


 ちなみに、閏(うるう)は、門+王と書くが、その理由を、世界最古の漢字辞典『説文解字』は、「閏 餘分之月五歳再閏告朔之禮天子居宗廟閏月居門中从王在門中」と説明している。

 閏は、余分の月なり。五歳(とせ)再(ふたた)び閏。告朔(こくさく)の礼には、天子宗廟(そうびょう)に居(い)る。閏月には門の中に居る。よって、王は門の中に在(あ)り。(読み下し文:久保)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho04/ho04_00029/ho04_00029_0001/ho04_00029_0001_p0020.jpg

 つまり、閏とは、余分の月をいう。五年ごとに閏月を繰り返す。告朔の礼(月の始まりを先祖に報告する儀式をいう。)を行うために、天子は、宗廟(先祖の祭祀を行う廟をいう。)にいるが、閏月には門の中にいて告朔の礼を執り行わなかったことから、「閏」という字は、王は門の中にあると書くわけだ。この当時は、閏月は5年に一度の割合だったということも分かって、面白い。


 なお、江戸時代の国学者である屋代弘賢(やしろ ひろかた。1758~1841年。)が編集した『古今要覧稿』によると、本来、「閏月」の訓読みは、「のちのつき」だったそうで、『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇紀に「閏十一月」と書いて「のちのしもつき」とあるのが初見だそうだ。ところが、『日本書紀』の敏達(びだつ)天皇紀と持統(じとう)天皇紀では閏月を「潤月」と書かれていたことから、いつの間にやら閏月を「うるうづき」と訓読みするのが習わしになったらしい。


 確かに、敏達天皇紀と持統天皇紀には閏月を「潤月」と表記しているので、「うるうづき」と訓読みするのが習わしになったのは、その通りだろうと思う。ただ、「のちのつき」が本来の訓読みだという説は、疑問の余地がある。


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897546/347

 国立国会図書館デジタルコレクションで確認してみたところ、文政3年(1820年)に出版された『日本書紀』巻八仲哀天皇紀には、確かに「閏十一月」に「ノチノシモツキ」とルビが振られていた。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599706

 しかし、これよりも古い慶長15 年(1610年)に出版された『日本書紀』仲哀天皇紀には、このようなルビはふられていないので、「閏月」の訓読みは、「のちのつき」だったという屋代弘賢の説は、検証の余地がありそうだ。今後の課題としたい。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544344


 さて、このように太陰暦では、閏月を設けなければならないわけだが、一年のうちどこに閏月を設けるかは、月の満ち欠けだけでは決定できないため、太陽の観測が必要になる。

   それ故、古来より支那の各王朝は、天文台を設置して天体観測させ、この観測結果に基づいて各季節の太陽の位置(春分・夏至・秋分・冬至)を決めて(その後の細かい手順は、マニアックすぎるので、省略する。)、閏月を定めたわけだ。だから、通常、太陰暦と呼んでいるが、正確には太陰太陽暦なのだ。


 この支那の太陰暦は、古くから日本へ伝えられていたが、我が国で公式に採用されたのは、第41代の持統天皇(ご在位687〜696年)のときで、『日本書紀』持統天皇紀によると、その四年十一月甲申に「奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆」とある。

 勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて始めて元嘉(げんか)の暦と儀鳳(ぎほう)の暦を行う(読み下し文:久保)。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563112?tocOpened=1

 つまり、持統天皇の勅命によって、我が国で始めて公式に支那の元嘉暦(支那では445年〜509年まで65年間用いられた。)と儀鳳暦(支那では665年〜728年まで64年間用いられた。)を併用したわけだ。

 暦の作成は、安倍晴明(あべのせいめい)で有名な陰陽寮(おんみょうりょう)と呼ばれる朝廷の役所が担当していた。

 その後、我が国の太陰暦は、数度の修正を経て、第120代の仁孝(にんこう)天皇(ご在位1817〜1846年)のとき、天保(てんぽう)15年(1844年)に「天保暦」に改暦され、明治5年までの29年間用いられた。そのため、現在、我が国で「旧暦」と言えば、この天保暦を指す。天保暦は、渋川景佑(しぶかわ かげすけ)らが西洋天文学の書籍を訳して、その成果を活かして作ったもので、太陽暦よりも誤差が少ない世界で最も正確な太陰暦だったというのだから、驚きだ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535071/2


3 易姓革命と「正朔を改める」

 支那の太陰暦には、閏月の他に、もっと厄介な問題があった。一年の始まり(1月1日)をいつにするかである(ちなみに、1月1日を元日と呼ぶが、「元」ははじめなので、元日は、一年のはじめの日という意味になるのに対して、「旦」は朝なので、元旦は、一年のはじめの朝という意味になる。)。

 今でこそ「とし」のことを「年(ねん)」と呼んでいるが、古代支那では様々な呼び方がなされていた。支那最古の類語辞典である『爾雅(じが)』釋天第八は、次のように説明している。

「歲名 載歲也夏曰歲商曰祀周曰年唐虞曰載」

 歳名(さいめい)。載(さい)は、歳(さい)なり。夏(か)は歳(さい)といい、商(しょう)は礼(れい)といい、周(しゅう)は年(ねん)といい、唐虞(とうぐ)は載(さい)という。(読み下し文:久保)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03159/i04_03159_c097/i04_03159_c097_0001/i04_03159_c097_0001_p0039.jpg

 つまり、「とし」の名前をなんと呼んだかというと、支那最古の王朝である夏では歳といい、商(殷(いん)の別名。)では礼と言い、周では年と言い、唐虞(伝説の王である尭(ぎょう)と舜(しゅん)の時代。)では載と言ったわけだ。


 このように「とし」の呼び名が王朝によって異なったように、一年の始まり(1月1日)をいつにするかについても、王朝によって異なったのだ。


 というのは、古来より、支那では、易姓革命(えきせいかくめい)という考え方が採られていたからだ。

 すなわち、易姓革命とは、天子(王、のちに皇帝を指す。)は、天から天命(天が与えた命令・使命をいう。)を受けて国を世襲で治めるが、天子が徳を失って天命に背(そむ)くと、天は、その地位を奪って、徳のある別姓の者に天命を下して、これを天子の地位に就(つ)け、民と土地を支配させるという思想であって、天子の血筋が変わり、王朝が交替したことを正統化するためのイデオロギーだ。天命を革(あらた)め、天子の姓が易(か)わるので、易姓革命と呼ばれている。


 なお、易姓革命には、禅譲(ぜんじょう)と放伐(ほうばつ)という2つのパターンがあった。尭から舜への譲位のような禅譲(世襲によらずに、別姓の者に平和的に天子の地位を譲ることをいう。『三国志演義』で有名な魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)から禅譲の形式で皇帝の座を奪ったように、実際には、武力で脅して天子の地位を奪い取り、見せかけだけの禅譲を行った。)もあるが、ほとんどのケースは、前の王朝を武力で倒す放伐(暴君又は暗君を討伐して追放し、替りに別姓の者が天子の地位に就くことをいう。)だった。


 そして、天文現象は、天が天子に示した意思の現れであると考えられていたので、天文観測を行って暦を作ることは、天子の務めとされていた。

 そこで、新王朝は、その天子の地位が天命に基づくこと(支配の正統性)を高らかに宣言するために、正朔(せいさく)を改めたわけだ。ここにいう「正」は年の始め、「朔」は月の始めなので、「正朔」とは、1月1日を意味し、「正朔を改める」とは、1月1日を変更することを指す。1月1日を変更することは、暦法(暦を作る基準・方法のこと。)を変更することでもあるので、「正朔」は、暦法を意味するようになった。例えば、殷は、12月1日を1月1日に、周は、11月1日を1月1日に、それぞれ変更した。


 また、前述したように、閏月を設けて修正しても、そもそも基準となる月の満ち欠け自体が約29.5日と不完全であるために、同じ太陰暦を長年使い続けることができず、どうしても暦法を変更しなければならないという科学的理由もあったと思われる。家に喩(たと)えれば、何度も内装をリフォームしても、そもそも柱が根元から腐ってしまったら、家を建て替えざるを得ないようなものだ。


 このように、支那では、王朝が交替する度に、一年の始まり(1月1日)を正しくしようと暦法を改めたので、1月のことを正月と呼ぶようになったものと思われる。


 ところが、我が国では、2680年間、幸いなるかな万世一系の皇統が続いており、一度も易姓革命が起きたことがない。また、明治5年(1872年)12月3日から太陽暦が採用されている。そのため、現代では、一部の人々を除き、1月を正月と呼ぶ理由がいつの間にやら忘れ去られ、誰も気にも留めなくなってしまったのではあるまいか。


4 他説の検証

 もっとも、「語源由来辞典」というサイトによると、正月の語源・由来については、『壒嚢鈔(あいのうしょう)』の説が有力だそうだ。

http://gogen-allguide.com/si/syougatsu.html

 室町時代中期の百科事典である『壒嚢鈔』巻八には、「サテ正月ト云事ハ秦始皇寅月ニ誕生ス我カ降誕ノ月ナルヲ以テ専政道ヲ行フ故ニ政月ト云後改テ正月ト書」とある。

 さて正月と云う事は、秦の始皇が寅の月に誕生す。我が降誕の月なるを以って専ら政道を行う故に、政月と云う。後に改めて正月と書く。(現代仮名遣い:久保)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2597266?tocOpened=1

 つまり、なぜ正月というのかと言えば、秦の始皇帝が寅の月(太陰暦の初月すなわち1月)に誕生した。自分が生まれた月なので、政治に専念したから、政月という。後に改めて正月と書くようになったというわけだ。ちなみに、始皇帝の諱(いみな。生前の名のこと。)は、政である。


 しかし、『壒嚢鈔』の説明では、始皇帝が生まれるずっと前から1月が「正月」と呼ばれていたことを上手く説明できないのではないか。秦よりも古い王朝には、例えば、夏暦・殷暦・周暦があったとされている。夏暦・殷暦・周暦は、断片的にしか資料が残っておらず、その復元がなされつつあるそうだが、例えば、孔子が編纂(へんさん)したと伝えられている魯(ろ。紀元前11世紀〜紀元前249年に存在した国のこと。)の歴史書『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』には、「元年、春王正月」とあり、「隠公之始年、周王之正月也」と注が付けられている。

 つまり、「元年、春王正月」というのは、魯の隠公の始めの年のことで、周王が定めた周暦の正月だというわけだ。

 少なくとも秦の始皇帝が生まれるよりもはるか昔の春秋時代にすでに1月が「正月」と呼ばれていたことが分かる。それ故、『壒嚢鈔』の説明は、支持し得ない。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599303?tocOpened=1

 

 また、前出の『古今要覧稿』には、「元年春王正月と春秋いふも物正しきの義にとりていふなり正月謂之瑞月と史記いひ侍るも正月と云と義おなし瑞正の二字いつれもたたしき義なれは文字をかへて瑞月とかけるなり」とある。

 つまり、「元年春王正月」と『春秋』が言うのも物正しいの意味にとって言うのだ。「正月はこれを瑞月と謂う」と『史記』が言うのも正月という意味と同じで、瑞正の二字いずれも正しいという意味なので、文字を変えて瑞月と書いているのだというわけだ。

 確かに、書いてあることは、その通りなのだが、なぜ1月が正しいのかという肝心の説明がなされていない点で、妥当でない。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897546/347


 現代の「どちて坊や」には、「昔の中国では、月の満ち欠けを1か月としてカレンダーを作っていたんだけど、このカレンダーを長く使っていると、季節とずれてしまうんだ。そこで、(王様の血筋が替わったことをきっかけに)、季節とずれてしまった1月1日を正しくしようとカレンダーを作り直したので、1月のことを正月と呼ぶんだよ♪」という風な感じで説明したら、質問攻めから解放してくれるだろうか?

 一休さんを見習って、三十六計逃げるに如かずだな!笑

 

 

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