「裁判事務心得」をご存知だろうか?
どうせ裁判官、裁判所書記官及び裁判所事務官の心構えを書いたものだろ?自治体職員には、関係ないよ!と思うなかれ。関係があるのだ。
訓令・通達等の行政規則は、国民の権利義務に関する法規範(法規)ではなく、行政組織内部の規範にすぎず、部外者である国民や裁判所を拘束するものではない。
要するに、行政規則は、法令ではないわけだ。
裁判所が行政規則に拘束されないことの法的根拠については、憲法第76条第3項の「すべて裁判官は、・・・この憲法及び法律にのみ拘束される。」に求めることができるが、この点についてはっきりと明記している太政官布告(だじょうかんふこく)があるのだ。明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得)第5条がそれだ。
明治8年の太政官布告が現在も効力を有するのかという疑問が生じるかも知れないが、日本国憲法第98条第1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めており、戦前の法令等も、その内容が日本国憲法に反し違憲でない限りその効力が存続すると解されているので、明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得)は、現在もその効力を有するのだ。
cf.1日本国憲法(昭和二十一年憲法)
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
ちなみに、「太政官布告」は、単なるお知らせではなく、明治初期の法令形式の一つであって、現在の法律に相当するものだ。
太政官が全国民に布告した「太政官布告」については、「云々候條此旨布告候事」(うんぬんそうろうじょうこのむねをふこくそうろうこと。ルビ:久保)と結ぶのに対して、太政官が発した各官庁および官員に対する訓令・通達等の行政規則としての意味を持つ「太政官達」については、その結文を「云々候條此旨相達候事」(うんぬんそうろうじょうこのむねをあいたっしそうろうこと。ルビ:久保)又は「云々候條此旨可相心得候事」(うんぬんそうろうじょうこのむねをあいこころえるべくそうろうこと。ルビ:久保)として、両者を区別している(明治六年太政官布告第二百五十四号)。
法学部ではこのようなことを教えてくれないので、参考までに下記の表を転載しておく。
『日本法令索引〔明治前期編〕解説 明治太政官期法令の世界』
https://dajokan.ndl.go.jp/kaisetsu.pdf
さて、明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得)に話を戻そう。e-Gov法令検索でこれを検索すると、抄録が掲載されていた。
cf.2明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得) 抄(明治八年太政官布告第百三号)
今般裁判事務心得左ノ通相定候条此旨布告候事
第三条 一民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ
第四条 一裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス
第五条 一頒布セル布告布達ヲ除クノ外諸官省随時事ニ就テノ指令ハ将来裁判所ノ準拠スヘキ一般ノ定規トスルコトヲ得ス
まず、明治八年太政官布告第百三号には、題名がない。そこで、「今般裁判事務心得左ノ通相定候条此旨布告候事」(こんぱんさいばんじむこころえさのとおりあいさだめそうろうじょうこのむねをふこくそうろうこと。ルビ:久保)という文から、便宜上「裁判事務心得」と呼ばれている。これを件名という。
次に、条名の後にある「一」は、「ひとつ」と読む。箇条書きをする際に、「・」や「◾️」などの記号若しくは数字又はアルファベットを項目の前に記載して見やすくすることがあるが、我が国の場合には、記号等の代わりに、「一」や「一、」を全項目の前に記載することがあり、裁判事務心得も、この慣例に従っている。横書きでは分かりづらいが、下記の太政官布告全書を見れば、一目瞭然だと思う。
さらに、裁判事務心得第4条と第5条には「定規」という言葉が出てくる。「定」には、呉音「じょう」と漢音「てい」という二つの音読みがあるが、ここでは漢音で「ていき」と読む。決して「じょうぎ」ではない。
平安時代以降、日常生活に定着している漢字やお経などの仏教関連の漢字は呉音で、それ以外は漢音で読むしきたりになったことついては、以前、このブログで述べた。
「定規(ていき)」とは、本来、定まっている規則・規約という意味であって、ここでは国民や裁判所をも拘束する法規範という意味で用いられている。
なお、下記の太政官布告全書には、「ヿ 」が用いられているが、これは「こと」と読む。現在、用いられていないが、片仮名「コ」と片仮名「ト」を組み合わせた(合字)片仮名(合略仮名)のひとつだ。
明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得)『太政官布告全書.明治8年第6冊』(有隣堂)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787679
裁判事務心得は、行政規則が裁判所を拘束しないことだけでなく、他にも重要な事柄を定めている。
すなわち、裁判事務心得第3条は、慣習法や条理が成文法(条文の形になっている法、つまり制定法のこと。)を補充すること、成文法がないことを理由に裁判拒否することができないことを表している。
また、裁判事務心得第4条は、英米のような判例法主義ではなく、独仏のような制定法主義を採ることの法的根拠だ。
このように裁判事務心得は、非常に重要なことが明記されているにもかかわらず、法学教育ではほとんど触れられることがないのは残念だ。
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