金子堅太郎先生

 今日は、クリスマス・イブ。クリスチャン以外の人は、独り静かに、キリスト教よりも遥かに古い日本のお国柄に思いを致すのも一興ではなかろうか。

 そこで、金子堅太郎(かねこ けんたろう)先生のお話をしようと思う。

 大日本帝国憲法の起草者のお一人として、お名前は存じ上げていても、その波瀾万丈の前半生については、あまりご存知ないかも知れない。


 金子先生は、嘉永6年(1853年)2月、福岡藩士金子直道(なおみち)氏の長男として生まれ、8歳の時に寺子屋で学んだ。「いろは」、「一二三四五六七八九十」、五常(仁、義、礼、智、信)、五行(木、火、金、水)五色(青、黄、赤、白、黒)という初歩を習い、次に、短語を習う。

 初めて習った短語は、水戸黄門光圀卿壁書「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」で、暗唱し読み書きした。家に帰ってこれを祖母に見せた。祖母が言うには「これがお前が初めて習った短語か」、「これが短語でございます」、「それは良いことを教わった。お前この句は一生忘れなさんな。苦は楽の種、人間が苦労するのは楽の種を蒔きよるんだぞ。又楽ばかりしておると、苦の種を蒔きよるんだぞ、この句は一生お前忘れなさんなよ」と教えた。「苦労は金を出しても買え」という。「お前が寺子屋に入ってこれから先学問して立派な人間になっていこうと思うなら苦労は楽の種ということを忘れるな」と祖母から懇々(こんこん)と教えて貰った。これが一生涯精神修養の骨子となった。

 9歳で藩校である修猷館(しゅうゆうかん)に入学。四書五経、史記、十八史略、左傳、資治通鑑等の講義を聴いた。10歳の暮れまでには世間一通りの学問をした。

 祖父は、武術に通じ厳格な人で、毎日孫の金子先生に剣術の稽古をつけた。金子先生は、普段、備前長船祐定(びぜんおさふねすけさだ)の名刀を佩(はい)していたので、小禄の士族でありながら羨望(せんぼう)の的だったらしい。

 父は、勘定奉行所の役人で、江戸、京都、大阪の各地へ旅をするにつけて、人一倍天下の形勢に通じていた。早くから役人となったために、学問をしなかった悲しさ、青雲に乗ずることができぬ。お前は父と二人分の学問をして天下に名を揚げてくれと、懇々(こんこん)と言い聞かされたので、好きな学問ができる、渡りに舟とはこのことだと思って、大いに学問を励もうと堅く心に決した。父は、大阪からいろいろな本を取り寄せて、これを読めと与えた。

 

 しかし、慶応4年(1868年)4月、15歳の時に、父が亡くなった。普通の母ならば悲嘆に暮れているだろうに、葬式を済ませた母安子(やすこ。当時38歳)は、金子先生を位牌の前に座らせて、

 「今日までお前を育てるに、私は慈母の愛を以って育んで来たが、明日いや只今(ただいま)からは、あの亡き父の厳格なる精神と母の慈愛との、この二つを以ってお前を教育して行かねばならぬから、或る場合には慈愛を捨てて厳格一点張りで教育するかも知れんが、予めそのことについては、承知しておいて貰いたい。もし万一お前が家督を相続して、名もなきつまらぬ者になってくれれば、この母が先祖に対し、はたまたお前の父親に対して、申し訳がないから、よくこのことを弁(わきま)えて、一生懸命に勉強して貰いたい、どうか父の位牌の前でお誓いをしてくれ」と言われたので、その通りにしたそうだ。


 父は一代限りの士分だったため、士籍を失い、金子家は、貧乏になった。そこで、子供4人(男3人・女1人)を抱えては大変だからと親戚が集まって心配し、母に対して入夫(にゅうふ。婿養子のこと。)を迎えてはどうかと勧めたところ、母は、金子先生をこの場に立ち合わせて、

 「子供達の教育をするに、入夫を迎える程私は不甲斐ない者とは思いません。この家に嫁して夫に死なれたので、入夫を迎えよとは余り情けなきお考えだと思います。私は後家を立て通して、子供達の教育を立派にして見せますから」ときっぱりとはねつけたので、親戚たちも驚いて二の句が出ず、退出してしまった。

 そして、金子先生に「今お聞きの通り、私が親類の人々に申したにより、将来お前たちがもしも立身出世ができなかった暁には、あの人達に申し訳がないから、よく母の心得を承知して勉強してくれ」と言われたそうだ。


 金子先生は、15歳で家督相続し、身体が弱いのに、役所に出仕して、使番や給仕などをして一家を支えた。

 藩一の秀才と呼ばれ、御殿に上がれば、家老の息子や年嵩(としかさ。年上のこと。)の者よりも上席に据(す)えられていたのに、今では「おい!給仕、茶を持ってこい!」と言われ、父の急死に悲痛な涙を流したそうだ。

 その後、伏見の戦いが始まり、一兵卒(雑兵。ぞうひょう。侍よりも身分の低い足軽。)として、重い鉄砲を担いで、英式軍事教練に明け暮れながらも、勉学を怠らなかった。学校では支那の歴史を学ぶが、日本の歴史は学ばぬから、父から与えられた太平記、源平盛衰記、太閤記等を読んで、千切れ千切れで日本の歴史を朧(おぼろ)げに知っていたが、弘道館記述義を読んで、初めて日本の歴史、国体の尊厳と比類なさを悟った。


 明治維新後、修猷館での成績が優秀であることから、永代士分に列せられ、明治2年(1869年)、藩主の命により秋月藩へ留学し、明治3年(1870年)、若い藩士10人が選抜され、東京、山口、静岡、鹿児島に留学を命じられたのだが、17歳の金子先生は、東京の昌平黌(しょうへいこう。江戸幕府の学校。)へ留学を命じられた。

 母が送別会を催してくれて、親戚や友人が帰った後で、「学問のことについては、私は何もいう必要はないが、昔から江戸に行って諸国の人が業ならず、失敗するその原因は皆酒と女だから、今度東京に行ったならば卒業して帰郷するまでは酒と女を禁じて勉強せよ」と言われたので、金子先生は、堅く約束して上京した。


 東京へ着くと、昌平黌が廃されたので、漢学塾に籍を置いたのだが、この塾の先生は、夜な夜な賤妓を家に招いて浮かれている。

 ある日、弘道館記述義を読んでいると、先生が「私の塾は孔孟の儒学を教える所である。和学を教える所ではない。お前の弘道館記述義は和学だからここで読むことはならぬ。」と仰るので、「先生に伺いますが、あなたの塾は孔孟の儒学を教える所であることは私も承知しておりますが、しかし孔孟の儒学を我々書生が学ぶのは何のためであるか、王政維新になって朝廷の御用に立つ人物になろうと思うて学問をする。然(しか)るに王政維新の新政府、朝廷の成立ちを知らずして孔孟の儒学を実地に行えますかどうか、御伺い致したい。」と言ったら、「俺の塾は孔孟の儒学を教える所である、和学を教えぬからお前和学がしたければ和学の先生の家に行け。俺の塾では和学の本の音読はならぬ。」と仰る。「読ませぬと仰せられても、朝廷の成立ち今の政府の成立ち、又日本の歴史を知らずして、支那(しな)の文王がどうだ、堯舜(ぎょうしゅん)がどうだ、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)がどうだなんということを知っても何の役にも立ちませぬ。日本開闢(かいびゃく)以来の歴史を知らなければ日本国民の学問にはなりますまい。」と言ったら、先生が「それではお前の音読だけは禁ずる。音読すると他の書生の妨げになる。又俺の塾は儒学を教える所であるから、お前が読む和書の音読は困る。しかしお前限り黙読は許すから、黙って読む分には差し支えない。」と許されたから、議論を止めた。

 藩命ゆえに勝手に塾を辞めるわけにもいかず、不承不承ながら塾にとどまっていた。


 ところが、廃藩置県が発布せられたので、これを好機に塾を辞め、藩邸に戻ったところ、廃藩置県により藩からの仕送りが途絶えたため、生活に困窮し、他の藩生(藩から留学を命じられた学生)一同が帰郷する中、母から一通の手紙が来た。

 そこには、先祖伝来の土地家屋書画骨董什器等を売り払って兄弟四人の学資に当てるから、承知せよ、その資金で兄弟四人が出世すれば、買い戻すこともできよう、次弟は長崎に、末弟は福沢塾に入れて教育させ、妹は側に置いて、母の兄の表の小さな家に引き移ったから安心してくれ、成業するまでは帰るに及ばず、勉学に励めという激励の言葉が記(しる)されていた。

 感涙に咽(むせ)んだ金子先生は、如何なる辛苦も厭(いと)わず、東京に独り残って勉学を続けることを決意し、同じ福岡藩士でアメリカ留学経験がある司法省判事志賀義質(よしただ)氏に乞うて住み込みの従僕となり、毎朝4時半に起床して主人である志賀先生に出勤前に英語を教えて貰うことになった。


 志賀先生の家は、二階建てで、二階に志賀先生の書斎と寝室があり、金子先生は、志賀先生の寝室の下の部屋で寝起きした。

 志賀先生が起床して、洗面に行くときに金子先生の部屋を覗いて、金子先生が寝ていると、その日一日機嫌が悪く、英語の教え方もその日に限って粗略になるため、二階がガサガサと志賀先生起き出す気配がしたら、すぐに行燈(あんどん)を引き寄せ勉強し始める。そうすると、今日も先を越されたかと志賀先生がおっしゃって、その日一日は上機嫌で、英語も丁寧に教えてくれたそうだ。

 志賀先生は、謹厳実直なお人柄で、学問はもとより精神的な感化を受けたそうだ。


 当時の判事は、従僕に御用箱と弁当箱を背負わせて登庁する規則だった。志賀先生は、馬車に乗らず、徒歩主義だった。当時の慣わしで、従僕は、暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが槍が降ろうが、頭に笠はもちろん、手拭いを巻くこともできないし、下駄を履くこともできずに草履だ。雨の日は草履は禁物なので、跣足(はだし)だから、氷のような冷たい冬の雨の日は、足一面が垢切れして血が滲(にじ)み、痛い足を引き摺(ず)りながら、主人のお供をせねばならず、かなりお辛かったそうだ。

 司法省の玄関脇に設置された一棟の火の気のない従僕室にて、従僕たちが暇を持て余して雑談したり博打(ばくち)をしたりしている中で、寸暇を惜しんで洋書の復習をした。

 主人が退省する際には、従僕は、石を敷き詰めた玄関で土下座して迎えなければならない。元は同じ藩士なのに、主人は大輔(たいふ。律令制の八省の次官の一つ。)で、我は卑賤な草履取りであることに大いに奮起し、一層勉学に励んだ。


 明治4年(1871年)18歳の時、転機が訪れる。志賀先生に呼ばれ、「永々御厄介になったが、お前に伴をして貰うのも今日限りじゃ。実はお前を永らくこうして置くのは気の毒じゃて黒田侯にお話ししてアメリカに留学させることとなった」と告げられた。

 岩倉使節団の米欧派遣に、旧藩主の子息である黒田長知(ながとも)氏が私費留学生として加わることとなり、志賀先生の推挙により金子先生も、團琢磨(だん たくま)氏(後に、金子先生の妹芳子と結婚し、東大理学部助教授、三井鉱山専務理事・三井合名会社理事長などを歴任して、三井財閥総帥になる。孫の團伊玖磨(いくま)氏は、作曲家。)とともにの若殿長知氏の随行者に選ばれたのだ。

 志賀先生に連れられて藩公邸を訪れ、長知氏の父で旧藩主黒田長溥(ながひろ)侯爵に初めて拝謁した際に、アメリカに行くからには何か一つの事に精通してくれ、年限は幾年かかってもよい、学資は差し支えないように送るから、決して半途で帰ってはならぬと言われて、感涙して随行を有り難くお受けしたそうだ。


 渡米前に母に会いたかったが、福岡へ帰る時日がなく、差していた大小と髪の毛を添えて、「もし私が、米国で死んで帰らぬ場合には、これを形見として、葬って下さい」と手紙を送った。

 母は、兄の表家に、公債の利子で辛くも暮らしていたが、借金はなかった。「借金して生活をすれば、身の破滅のもとだから、生活程度をできるだけにして、三度の食事を一度は粥(かゆ)にしても、借金はするな」と常に人に語っていたそうだ。金子先生が帰国するまで8年間そこで暮らしていた。


 明治4年11月、岩倉大使一行とともに渡米。ボストンの市立小学校4年生に編入して飛び級で卒業し、公立高校2年生に編入した。海軍の軍人を志望したが、身体が頑強でなければ海軍は務まらないと言う医師からの勧めでハーバード大学ロースクールへの進学を決意し、その準備のために高校を中退し、ホームズ弁護士(後にハーバード大学教授、連邦最高裁判事。我が国では、違憲審査基準である「明白かつ現在の危険」の法理で有名だ。)に師事し、法律事務所で学ぶ。

 明治9年(1876年)10月、23歳でハーバード大学ロースクールに入学したが、教授陣が実務法曹であるため、憲法の講座がなく、ホームズ弁護士の教示で『ザ・フェデラリスト』等の書物を読んで、独学で憲法を学んだ。

 後に日露戦争時の外務大臣となる小村寿太郎氏と二人で下宿を借りて勉強に打ち込むとともに、ハーバード大学OBで、後に大統領となるセオドア・ルーズベルトなど、一流の人士と交流した。

 上院議員サムナーからエドマンド・バークを教えられ、バークの著作に親しみ、日本初の保守主義者となり、後に、金子先生は、バークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』を抄訳して、ボルグ著『政治論略』として出版する。

 また、日露戦争時、中立国だったアメリカでは黄禍論が盛んで、世論は親ロシアだったが、政府の密命を受けた金子先生が再び渡米して、学生時代から続く人脈を活かして、セオドア・ルーズベルト大統領との親睦を深め、全米各地で講演を行うなど、巧みな宣伝広報活動(大統領との直接の会見や晩餐会・私邸への招待など計25回、高官・ⅥPとの会談・晩餐会・午餐会など60回、各所での日露戦争・日本の立場の演説スピーチは50回、ニューヨーク・タイムズなど新聞への寄稿は5回)よって対日世論を好転させた結果、アメリカに講和の調停役を引き受けさせることに成功した。日露戦争の影の大功労者だ。ロシアとの戦争が長期化すれば、国力に劣る日本は負けていたからだ。


 話を戻そう。明治11年(1878年)6 月、25歳でハーバード大学ロースクールから法学士(Bachelor of Laws)の学位を授与され、卒業した(明治32年(1899年)、46歳の時に、ハーバード大学から憲法制定等の功績が認められ、名誉法学博士号(L.L.D)を授与されている。)。

 明治11年9月、マサチューセッツ工科大学の鉱山学科を卒業した團琢磨氏と共に帰国した。


 帰国後、金子先生は、高等官(今のキャリア官僚)を希望したが、薩長の藩閥政治が行われていたため、他藩の藩士が高等官になることが困難だった。

 そこで、慶應大学夜間法律科講師、東京大学予備門(後の東大教養学部)の英語講師をし、赤坂に家を構えて、母と弟妹を呼び寄せ、弟妹を学校へ通わせた。

 母から「私が金子家に嫁いで来たときは、まだ自己の思想の固まらざるときであって、姑から教育されたから、お前の妻になる嫁も、年若くて未だ自己の思想の固まらざるものを貰って、私のように金子の家風を仕込んでやりたいから、どうか私の希望を入れてくれ」と言われたので、当時、青森県令(今の知事)をしていた山田秀典(ひでかね)氏の娘(15歳)を嫁にした。

 母は、一年ばかり嫁を訓育して、もうこれでよいとて、隠居し、その後は何事も一切嫁に任せ、自分は少しも干渉せず、自分の部屋で読書三昧に日を暮らし、あるいは散歩するのを唯一の楽しみとされ、嫁も母によく尽くした。


 明治13年(1880)1月、元老院の書記官となり、明治17年年2月、東京師範学校(後の筑波大学)の教授を兼ねて法令概要などを教え、明治19年(1886年)に帝国大学法科大学(現在の東大)講師として、日本初の行政法講座を担当した。

 その後、農商務大臣、司法大臣、枢密顧問官を歴任するのだが、後半生は、有名なので、割愛する。


 ただ、この親にしてこの子あり。御母堂のお話をもう少ししようと思う。

 明治31年(1898年)、伊藤内閣の時に、農商務大臣を拝命し、母に辞令を見せ行くと、「これで私は、いつ死んでも思い置くことがない、最高の役人までに出世してくれたので、お前の父親に冥土(めいど)にて報告ができるから死んでもよい、人の妻となり、母となっての道を尽くした」と喜ばれたそうだ。

 そして、明治33年(1900年)、男爵を賜ったので、母に報告すると、「先年大臣になったので、いつ死んでもよいと思うたが、今またこんな恩命を拝したからには、お前は一生天子様に忠義を尽くさねばなりませんぞ」と喜ばれた。

 人に接しては極めて親切で、意志は堅固な人であった母は、明治34年(1901年)、インフルエンザで亡くなった。72歳であった。その日は、2月11日紀元節で、朝から調子が悪いというので、医師・看護婦が付きっきりだったが、この分ならば大丈夫そうだというので、金子先生は大礼服を着て玄関まで行くと、ご容態が急変したというので、母の部屋へ行くと、もう亡くなっていたそうだ。

 後で看護婦に聞いたところによると、「今度はとても全快しない。永々(ながなが)ご厄介になりました。私が死んだら死後の用意はしてあるから、押入れの箪笥(たんす)の下の抽出(ひきだ)しをあけろと嫁に言うて下さい」と伝えさせ、医者や看護婦に別れを告げ、両手を組ませて数珠をかけてくれと言うて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱え、その後、静かに息を引き取ったそうだ。

 抽出しを開けてみると、腰巻き、足袋(たび)、襦袢(じゅばん)、着物、帯等に至るまで、皆白無垢(しろむく)で拵(こしら)えて入れてあった。自ら縫(ぬ)われたものだった。

 子供たちへの遺言は、「終身勤倹、斉家厳粛、事君誠忠」とこれだけで、また、自分が死んだら、火葬にして福岡へ持ち帰り、夫の墓と一緒にして呉れよと常に言っていたそうだ。


 さて、話を戻そう。伊藤博文公が憲法起草の大命を受け、井上毅(こわし)氏、伊東巳代治(みよじ)氏、金子先生の三人を憲法取調委員とし、大日本帝国憲法を編纂(へんさん)することになる。この時、金子先生は33歳だった。


 この憲法編纂過程の詳細については、能弁家である金子先生のご講演を読んでいただくのが一番だ!

 明治天皇や伊藤公のお人柄、欧米の憲法を真似たのではなく、日本古来からの国体(今ならば、国家社会主義者の手垢が付いた「国体」よりも、「国柄」(くにがら)と言った方が抵抗が少ないと思う。)に基づいていることが大変よく分かる。

 フランス、ドイツ、イギリスの歴史や憲法の違いも簡潔に述べられており、勉強になること請け合いだ。

 前述のホームズ、社会進化論のハーバード・スペンサー、法の支配に関連して憲法の教科書に出てくるダイシー、「地方自治は、民主政の最良の学校(the best school of democracy)」で有名なジェイムス・ブライスなど、錚々(そうそう)たる同時代人との交流も明らかになる。

 漢字にはルビが振ってあるから、お若い方も読み易いはずだ。たった75ページの講演録だから、読了するのにも時間はかからない。

 今日、大日本帝国憲法については、法学部の憲法の講義でほとんど触れられることがないし、いわれのない誹謗中傷がなされているけれども、日本国憲法のような欠陥だらけの憲法とは異なり、日本の国柄にマッチし、当時世界最先端の優れた憲法であったことも分かるはずだ。

 ご一読をお勧めする。


 金子堅太郎講演『帝国憲法制定の精神』

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