高校時代までは、乱読だったが、大学受験の必要に迫られて、先生のお薦めで、小林秀雄、外山滋比古、森有正、加藤周一などを読んだ(今の受験生は、何を読んでいるのだろうか?)。
小林秀雄や外山滋比古の本は、知的刺激に満ちていたが、先生の推薦図書の中には、必ずしもそうではないものもあった。例えば、加藤周一の『雑種文化』(講談社文庫)は、日本文化の特徴は雑種であり、その純化は純粋種に対する劣等感に由来するというような論旨だったが、世界中どこの国であろうが雑種でない文化なんてあるものか、立論の前提がそもそも大間違いだ、コイツは馬鹿かと思いながら、入試に出題されるかも知れないので、嫌々ながら読了した記憶が残っている。
大学入学後、苦手な語学をなんとかしようと思って、必修の英語以外にギリシャ神話を英語で読む講義を取ったのがきっかけで(受講している学生は6人で、私以外は帰国子女ばかりだったから、ペチャラクチャラと流暢(りゅうちょう)な発音で喋るし、すぐに朗読と先生の質問に対する回答の順番が回ってきて、いつも冷や汗をかいていた。苦笑)、ブルフィンチ作『ギリシア・ローマ神話 付インド・北欧神話』(岩波文庫)を読んだら、「ピュラモスとティスべ」という神話がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にそっくりなことに驚き、「ピュラモスとティスべ」→『ロミオとジュリエット』→映画『ウェストサイド物語』(1961年)という文化の流れを体感した。頭の中で一本の線でつながったのだ。2004年にスペインでヒットしたDavid Bisbalの『Buleria』のMVも、この流れにある。
これが契機となって、乱読を改め、名著名作と言われている本(その多くは、悪書だった。)を古いものから順番に読むようにし、今も少しずつ続けている(主要なものは読破したが、ヨーロッパの中世文学は、退屈で、遅々として進まないため、一部保留しているし、レ・ミゼラブルとユリシーズは未読だ。)。
全ての文化が過去からの積み重ねであることを体感できるだけでなく、何をどのようにミメーシス(模倣)し、何がどのように変容したのかを系統立てて理解できるのではないかと考えたからだ。
どの本も、学者が一生をかけて研究しているのであって、ど素人の私が読んでも所詮(しょせん)「論語読みの論語知らず」だということは、十分承知している。
とはいえ、例えば、ホメーロスの『オデュッセイアー』などの漂流譚→デフォーの『ロビンソンクルーソー』→ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』→ゴールディングの『蝿の王』→アニメ『ガンダム』(第1作。子供達がホワイトベースと呼ばれる軍艦に乗って宇宙を彷徨(さまよ)い戦争をするロボットアニメ。)という流れは、中高生にも分かり易いのではなかろうか。系譜が分かれば、頭の中がスッキリするのは確かだ。
さて、前置きが長くなったが、いわゆる選択的夫婦別姓論が連日報道されている。これを見聞きする度に思い出すのが、アリストパネースの『女の議会』(岩波文庫)だ(訳者の村川堅太郎氏が言うように、議会は近代の産物であって、古代ギリシャには存在しないから、本来は『女の民会』と訳すべきなのだが、我が国では『女の議会』が通り名となっている。)。
久しぶりに引っ張り出してみた。学生時代に古本屋で買った『女の議会』は、茶色く日焼けしているが、パラフィン紙のカバーは健在だった。
ご存知の方が多いと思うが、『女の議会』は、男装した女性たちがアテナイの民会を占拠して、女性が政治を独占するギリシャ喜劇だ。
アテナイは、スパルタとのペロポネソス戦争で疲弊し、シシリア遠征が失敗に終わって同盟ポリスの離反を招き、結局、ペロポネソス戦争も敗北に終わったのに、断続的に戦争を続けていた。軍隊の給料で生活している「市民」は、戦争の継続を望み、アテナイに残った「市民」は、陪審員の日給で糊口をしのぐ有り様だったから、無給の民会に出席する「市民」が減少したために、民会出席者にも給料を支払わざるを得ない状態に陥っていた。アテナイの民主政の哀れな末路だ。
このような政治状況下で、紀元前392年に『女の議会』が上演された。
この喜劇の主役は、女性たちなのだが、実際のアテナイで女性の政治参加が認められていたわけではなく、むしろ政治参加が認められていなかったからこそ、現実にはあり得ない奇想天外な逆転の発想が笑いを誘ったのだろう。
アテナイでは、民主政が行われており、「市民」が平等に政治に参加し、陪審員を務め、兵役にも服した。
しかし、ここにいう「市民」とは、家長たる成年男性を意味し、女性、未成年者及び奴隷は、「市民」ではなかった。
では、女性は、奴隷と同列に扱われていたのかと言うと、そうではない。「市民」の妻は、家の女主人として、奴隷たちを指導監督して、家業(通常は、機織り。)を経営していたからだ。
ただ、深窓の麗人と言えば聞こえが良いが、女性が外出することは他人から良く言われないため、娘時代から男性と社交する機会がなく、父が決めた相手と結婚することが運命づけられ、婦人部屋にて母とともに機織りをしたり、奴隷たちの監督を手伝ったり、料理を作ったりして過ごす日々は、退屈だったかも知れない。
当時の娯楽といえば、芝居見物だが、女性に観劇が許されたかどうかについては学説上争いがあるらしい。観客への呼びかけが全て男性に向けられていることから、女性が観劇できたとしても、決して好ましいものとは考えられていなかったと思われ、古来の祭礼のみが女性が憂(う)さ晴らしできる機会だったようだ。
これに対し、夫は、家を妻に任せっきりで外出ばかりして、アゴラ(広場)やギムナシオン(スポーツクラブ)でおしゃべりしたり、シュンポシオン(宴会)で飲み食いしたり、芝居見物したりして、日がな一日を過ごしていた。
しかも、夫が遊女や妾(めかけ)と遊ぶために家をあけても、世間から非難されることはなかったのだから、妻の中には、間男を家に引き入れる者も出てくる。姦通の現場で間男を捕らえた夫が、間男を殺しても殺人罪に問われなかったから、姦通は命懸けであり、それ故にこそ燃え上がったかも知れぬ。
このような女性の置かれた状況や女性の鬱憤(うっぷん)を観客たる男性たちもよく承知していたからこそ、女性たちが民会を乗っ取り政治を独占するという『女の議会』の設定が、ある種のリアリティをもって成り立つわけだ。
『女の議会』は、皮肉に満ちており、上記の時代背景を理解した上で読めば、それなりに楽しめるかも知れないけれども(喜劇としては、同じアリストパネースの『女の平和』の方が優れていると思う。戦争をやめさせるために、女性たちが夫婦の夜の営みをストライキするお話し。)、現代的な意義は、『女の議会』の女性たちが私有財産制と一夫一婦制を否定する共産主義を決議している点だ。
細かな相違点を捨象すれば、プラトンの『国家』(岩波文庫)の共産主義と瓜二つだ。京大名誉教授の田中美知太郎先生によると、プラトンの『国家』は、紀元前385年〜75年頃に執筆されたそうだから、『女の議会』の方が古く、プラトンは、『女の議会』に触発されて『国家』を書き上げたと推定される。
プラトンは、国家の守護者階級は、共産主義を実行すべきだと主張して、私有財産制を廃止するので、軍隊の如き共同生活・共同食事を行い、かつ、女性を男性の共有とするので、一夫一婦制とこれを前提とする家族・家庭は廃止され、子は父を知らず、父も子を知らず、育児・教育も国家の仕事になる。そして、国家の守護者階級の中から優秀な者を選んで哲学を教え、老年に達したら国政運営を任せるという哲人王を主張した。
プラトンは、自分こそが人民を支配する哲人王にふさわしいと考え、自分の理想とする国家を妄想したわけだ。
しかし、その理想とされる『国家』は、決してユートピアではなく、自由が抑圧された恐怖の全体主義国家であり、ディストピアだった。当時のギリシャ人すら狂人の妄想である『国家』を実現しようとはしなかった(それなのに、現代において、『国家』を絶賛する人がなんと多いことか!)。
これに対して、アリストパネースは、至って健全であって、共産主義者プラトンとは異なり、共産主義を徹底的に揶揄(やゆ)している。
例えば、一夫一婦制を廃止するので、夜の営みは、一夫一婦制に縛られずに、フリーになる。そして、女性は、全ての男性の共有だから、男性は、無料で女性と寝られるが、美人のそばには醜女(しこめ)が待機していて、美人と寝たい場合には、まず、醜女と寝なければならない。逆もまた然(しか)りで、女性たちが美男を求めて殺到しても、まず、醜男(ぶおとこ)と寝なければならない。観客は、ゲラゲラと笑ったことだろう。醜女・醜男を優遇するお話しは、ジョン・ロールズの『正義論』(紀伊國屋書店)を彷彿(ほうふつ)とさせる。
アリストパネースが、このような「女性の共有」の着想を得たのは、おそらくヘロドトスの『歴史』だと思われる。
「アガテュルソイは実に贅沢な民族で、ふんだんに金製品を身につける。妻を共有して自由に交わっているが、これは互いに兄弟となり部族民全部が近親となって、相互の間に嫉妬や憎悪の念が生ぜぬようにするためなのである。その他の風習はトラキア人によく似ている。」(松平千秋訳『歴史(中)』(岩波文庫)62頁)。
アリストパネースが醜女・醜男を優遇したのは、「相互の間に嫉妬や憎悪の念が生ぜぬようにするため」の工夫であって、アリストパネースのオリジナルだと思われる。素人考えなので、鵜呑みにはしないでいただきたい。
そして、女性の共有は、ヘロドトス『歴史』→アリストパネース『女の議会』→プラトン『国家』を経て、マルクス/エンゲルス『共産党宣言』に結実する。
すなわち、「共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんどつねに存在してきたのだ。
わがブルジョアは、彼らのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。
ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代りに、公認の、公然たる婦人の共有をとり入れようとする、とでもいったらよかろう。いずれにせよ、現在の生産関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。」(大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』(岩波文庫)64〜65頁。ゴシック体:久保。)。
なぜ、マルクス/エンゲルスが婦人の共有にこだわるのかがイマイチ分かりにくいかも知れないので、少し触れることにする。
マルクスは、原始時代の乱交制から文明時代の一夫一婦制へと社会が進化したと主張するモルガンの『古代社会』(岩波文庫)に感銘を受け、ドイツ人にこれを紹介すべくその抄録を作り始めたが、生前に完成せず、同志エンゲルスによって、成し遂げられた。それが『家族・私有財産・国家の起源』だ。エンゲルスは、乱交制から一夫一婦制へというモルガンの学説をほとんどそのまま踏襲している。
エンゲルスの考えをかいつまんで述べると、元々人間は、財産の共同所有制(原始共産制)を採り、男女間では自由な乱交が行われていたのに、私有財産制が採られるようになると、夫の富の相続人たる子供を産ませるために、一夫一婦制が採られ、その結果、妻は夫の支配を受け、姦通が禁止された。歴史に現れる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係なのだと言う。
そして、「近代的個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえに築かれており、そして近代社会は、個別家族だけをその構成分子とする一つの集団なのである。今日、すくなくとも有産階級では、夫は大多数のばあい稼ぎ手であり、家族の扶養者でなければならないが、このことが彼に支配者の地位を与えるのであって、これは法律上の特権を一つも必要としない。夫は家族のなかでブルジョアであり、妻はプロレタリアートを代表する。…近代的家族における夫の妻にたいする支配の独特な性格や、夫婦の真の社会的平等を樹立する必要性ならびに方法も、夫婦が法律上で完全に同権となったときにはじめて、白日のもとに現れるであろう。そのときには、女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第一の前提条件とし、これはまた、社会の経済的単位としての個別家族の属性を除去することを必要とする」(戸原四郎訳『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)97〜98頁。ゴシック体:久保。)。
つまり、男性によって抑圧されている女性(妻という名の家内奴隷)を解放するためには、女性が社会に参画して家庭を顧みず、一夫一婦制を廃止して家族を破壊し、私有財産制を廃止して共産制を採ればいいのであって、そうすれば、原始時代にそうであったように、女性の共有すなわち自由な乱交を実現できるぞ、これこそが真の女性の解放なのだというわけだ。
『女の議会』や『国家』という本の中の世界ではなく、女性参政権運動をはじめとする女性解放運動という現実の社会運動と共産主義を結びつけた点に特徴がある。共産主義の女性活動家を増やすという戦術的効果は、絶大だった。現代のフェミニズムとこれに基づく男女共同参画社会運動や夫婦別姓論なども、その一環だ。
評論家の宮崎哲弥氏の誘導により、元法政大学教授で参議院議員(社会民主党)であった田嶋陽子氏が、いわゆる夫婦別姓論の真の狙いを自白している映像があった。
ここまでこのブログをお読み下さった方々には、田嶋陽子氏の主張が、マルクス/エンゲルスの焼き直しにすぎないことをよくご理解いただけるものと思う。
宮崎氏 田嶋さんはね、ファミリーチェーンの抑圧から解き放たれなきゃいけない、
田嶋氏 なに?ファミリーチェーンって?
宮崎氏 あなたが本で書いているんだよ!要するに、家族の鎖ですよ。
田嶋氏 ああ。
宮崎氏 そういった抑圧から解き放たれなきゃいけない、婚姻制度なんてクソくらえっていう立場の人でしょ?
田嶋氏 よく言って下さった!
宮崎氏 だったらそれを主張しなさいよ。
田嶋氏 ちょっとまって。実は、私、結婚制度反対なの。
宮崎氏 そうでしょ。
田嶋氏 ちょっとまって。でも、私が「結婚制度反対」って…ただでさえ嫌われているのに、そんなこと言われたら、この夫婦別姓の話も聞いてくれない。結婚制度がなくなる前段階として、夫婦別姓は経過として一つ大事なの。私が言ってるのは、結婚制度は性差別の制度化なの。名前(姓)もその一つなの。
宮崎氏 主婦は奴隷なんでしょ?
田嶋氏 そうだよ。奴隷だよ!名前無くして、奴隷だよ。
宮崎氏 家畜なんだよね?
田嶋氏 そうだよ。家畜なんだよ。名前を取り返すの。名前を取り返すの。第一段階が夫婦別姓なの。そこから徐々に行くの。
しかし、エンゲルスが前提としたモルガンの乱交説は、現在の学会では、完全に否定されている。詳細は、例えば、千葉大学名誉教授の江守五夫著『結婚の起源と歴史』(現代教養文庫)に譲る。
私のようなド素人が考えたって、乱交制が人間本来のあり方だというのは、おかしいと容易に気づく。昆虫であれ、小さな魚であれ、小鳥であれ、オスが求愛行動を行っても、メスはちらっと見て、気に入らなければそっぽを向く。このように好き嫌いという感情ほど原始的なものはなく、乱交制なんてあり得ないのだ。人間には、愛すればこその嫉妬心があるから尚更だ。
人間は、家族、村、企業等の中間組織の中で躾(しつ)けられることによって、真人間になるのであって、結婚制度を前提とする家族を破壊すれば、愛情もモラルも知らず、良好な人間関係を構築できなくなってしまう動物なのだ。また、「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、私有財産があればこそ、人間は自由にものが言えるし、人間らしく生きられるのだ。
マルクスやエンゲルスは、そんなことを百も承知の上で、人間をバラバラにアトム化(原子化)した方が支配しやすいと考え、その妨げとなる家族・私有財産・国家を破壊すべく、己のドス黒い願望(狂った妄想)を科学という名のオブラート(似非(えせ)科学)で覆い隠しているにすぎないから、モルガンの乱交説が否定されても、痛痒(つうよう)を感じないだろうが。
田嶋氏が述べているように、夫婦別姓論は、第一段階にすぎず、第二段階は、一夫一婦制という婚姻制度と家族の破壊だ(同性婚という戦術で同時並行的に進行中だ。)。第三段階は、私有財産制の廃止だ(累進課税や相続税、環境対策などの戦術で同時並行的に進行中だ。)。第四段階は、国家の弱体化と破壊だ(反戦運動、二重国籍国会議員などのほか、ここには書けない様々な戦術で同時並行的に進行中だ。)。
マルクスらの亡霊に取り憑かれた人々は、ソ連・東欧が崩壊したことに全く動じることも反省することもなく、着実に全体主義へと歩みを進めている。ハイエクの言う「隷従への道」だ。
マスコミに踊らされることなく、日本の将来を担って立つ子や孫などの将来世代のためを思って、冷静にその是非を考えていただけたらと願うことしか私にはできない。
なお、全体主義の系譜は、大雑把に言えば、プラトン『国家』→カンパネッラ『太陽の都』→ホッブス『リバイアサン』→ルソー『社会契約論』・『人間不平等起源論』→シェイエス『第三階級とは何か』→マルクス/エンゲルス『共産党宣言』となる。
詳細は、例えば、モルネ『フランス革命の知的起源』(勁草書房)、ハンナ・アーレント『全体主義の起源』(みすず書房)、カール・ポパー『開かれた社会とその敵』(未来社)に譲る。
GYAO!のアニメ一覧を見たら、ハーレムもの?が非常に多くあった。醜男であるプラトンやマルクスが現代に生まれていたら、これらのアニメにハマって、多少は歪んだ欲望が緩和され、人類に害毒を撒き散らす本を書いたりしなかったかも知れないと思うと、残念でならない。
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