「意志」と「意思」

 クレジットの話ばかりしていると、気が滅入るので、話題を変えよう。


 法律学を学び始めたときに戸惑った言葉の一つが「意思(いし)」だ。日常生活では「意志」を用いているからだ。

 慣れというものは恐ろしいもので、当初は違和感を覚えた「意思」を今では当たり前のように使っている。苦笑


 「意志」も「意思」も、古来より、支那(しな。chinaの地理的呼称。)、そして日本で用いられており、意味が異なる。

 「意志」は、紀元前2世紀に淮南(わいなん)王の劉安(りゅうあん)により編纂された『淮南子(えなんじ)』が初出で、目的のはっきりした考え、あることをしたいという思い、こころざしという意味で用いられている。

 「意思」は、紀元後1世紀に王充(おうじゅう)が書いた『論衡(ろんこう)』が初出で、何かをしようとするときの心持ち、動機という意味で用いられている。


 ところが、英独では「意志」と「意思」を区別することなく、will(英)・Wille(独)という一つの言葉で表現している

 いずれもラテン語のvelle「望む」が語源だ。〜したい、〜しよう、〜するつもりという欲望を意味する。


 明治時代に、このwill・Willeを文脈に応じて、「意志」又は「意思」と翻訳したわけだ。


 『精選版 日本国語大辞典』(小学館)の「意志」の語誌によれば、「日本では、「哲学字彙」(一八八一)に収録され、定着を見た。明治中期から後期にかけて「意思」との混同が起こったが、「意志」は、主に哲学、心理学また、日常生活で、「意思」は主に法律関係で多く用いられ、今日に至る。」とある(下線:久保)。


 『デジタル大辞泉』(小学館)の「意志」の用法によれば、「「意志」は「意志を貫く」「意志の強い人」「意志薄弱」など、何かをしよう、したいという気持ちを表す場合に用いられる哲学・心理学用語としては「意志」を用いることが多い。◇「意思」は、「双方の意思を汲(く)む」「家族の意思を尊重する」など、思い・考えの意味に重点を置いた場合に用いられる法律用語としては「意思」を用いることが多い。」とある(下線:久保)。


 『法律用語辞典第4版』(有斐閣)によれば、意志とは、「物事をしようとする又はしまいとする積極的な思い。「意思」が、心の中に思い浮かべている内容一般を指すのに対し、「意志」は、それが行動と結びつく積極性がある。主に哲学、倫理学、心理学で用いられ、法律用語としては一般に用いられない。」とある(下線:久保)。


cf.1井上哲次郎 等著『哲学字彙 : 英独仏和』(丸善、明治四十五年)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/752943/93


 同じ外国語を文脈によって別の日本語で訳し分けることは、よく行われている。例えば、英語authorityは、通常「権威」と訳されているが、法律学では「権限」と訳されている。

 先人たちが読み手に理解しやすいようにと苦心して訳し分けているわけで、頭が下がる思いがする。


 さて、法律学で一般的に用いられる「意思」は、民法と刑法で意味が異なる。『法律用語辞典第4版』(有斐閣)とほぼ同じだが、『精選版 日本国語大辞典』(小学館)の方が出典を明示しており、分かり易いので、引用させていただく。

 「(イ) 民法上では行為の直接の原因となる心理作用。あるいは、法律上の効果を発生させようという意欲をいう。

※民法(明治二九年)(1896)九一条「公の秩序に関せざる規定に異なりたる意思を表示したるときは其意思に従ふ」

 (ロ) 刑法上では、自分がしようとする行為に対する認識をいい、犯意と同じ意味に使用される場合もある。

※刑法(明治四〇年)(1907)四三条「但自己の意思に因り之を止めたるときは其刑を減軽又は免除す」


 このように先人が訳し分けてくれたお蔭で、我々はこれにすっかり慣れてしまって、つい忘れがちなのだが、イギリス人やドイツ人は、will・Willeという日常用語で法律学を語り合っているのだから、我々も、たまには原語に戻って、〜したい(と思うこと)、〜しよう(と思うこと)、〜するつもり(のこと)という風に、日本語の日常用語に翻訳し直すことも大切だと思う。

 特に初心者に講義をする際には、この点を意識した方がよいと考えている。「意思とは、法律効果の発生を意欲することです。」よりも、「〜をほしいなぁ」・「〜を買いたいなぁ」と思うことが「意思」なんだという風に噛み砕いて説明すると理解しやすいからだ。


 ところで、前述したように、法律学では一般的に「意思」が用いられるのだが、現行法令において「意志」を用いたものがあるのだろうか。


 e-Gov法令検索で「意志」を検索したら、7本の法令がヒットした。そのうち、「意志」を用いた法律は、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律の1本だけだった。

 これに対して、「意思」を用いた法令は、903本もあった。


cf.2暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(平成三年法律第七十七号)

(離脱の意志を有する者に対する援護等)

第二十八条 公安委員会は、暴力団から離脱する意志を有する者(以下この条において「離脱希望者」という。)その他関係者を対象として、離脱希望者を就業環境に円滑に適応させることの促進、離脱希望者が暴力団から脱退することを妨害する行為の予防及び離脱希望者に対する補導その他の援護その他離脱希望者の暴力団からの離脱と社会経済活動への参加を確保するために必要な措置を講ずるものとする。

2 公安委員会は、暴力団から離脱した者が就職等を通じて社会経済活動に参加することの重要性について住民及び事業者の関心を高め、並びに暴力団から離脱した者に対する援護に関する思想を普及するための啓発を広く行うものとする。

3 公安委員会は、第一項の措置を実施するため必要な限度において、離脱希望者の状況について、第三十二条の三第一項の規定により指定した都道府県暴力追放運動推進センターから報告を求めることができる。


 さらに、条例Webアーカイブデータベースで「意志」を検索すると、「意志」を用いた条例が971本、規則が835本あった。

 これに対し、「意思」を用いた条例は21859本、規則は8955本あった。


cf.3山梨県の丹波山村定住促進に関する条例( 平成4年12月21日条例第23号)

(目的)

第1条 この条例は、丹波山村に生活の本拠を置き、かつ、定住の意志を有する者に対して所要の措置を講じることによって、若者の定住促進と村の活性化に資することを目的とする。


 このように国も自治体も、「意志」と「意思」をきちんと使い分けているのはさすがだ。



 気分転換に、ケビン・コスナー主演の映画『ボディガード』の主題歌であるWhitney Houston - I Will Always Love You(1992年)をどうぞ♪

<追記>

 みなさんならば、I Will Always Love Youをどのように翻訳なさるだろうか。

「I Will Always Love You 和訳」で検索してみたら、

・私は貴方を愛し続けていくでしょう

・あなたをずっと愛してる

・いつまでもあなたを愛し続けるわ

・あなたをいつも愛してる

・いつだって私はあなたのことを想っている

・この先もあなたを愛して続けるわ

などがヒットした。


 語学に堪能な先人がwillを文脈によって「意志」と「意思」に訳し分けたということは、換言すれば、willを一言で言い表す日本語がないということだ。

 中学校の英語のテストであれば、willを〜したい、〜しよう、〜するつもりと訳せば、点が貰えるだろうが、こなれた日本語にする場合には、強いて訳さずに省略する方がベターかもしれない。

 なぜならば、例えば、「私は、明日、あなたの家に遊びに行きたいです。」と言わずに、「明日、遊びに行くわ」・「明日、遊びに行くね」と言うことが多々あり、これで十分に相手に伝わるように、日本語の日常会話では、willに相当する言葉を明示せずに、語気、口調、状況及び相手との関係性で、言外に表現することが多々あるし、また、同様に、主語や目的語を省略することも多々あるからだ。

 それ故、I Will Always Love Youをこなれた日本語に訳す場合には、「ずっと愛してるわ」とでも訳したらよいのではなかろうか。

 私の気持ちであることは明らかだから、わざわざ「私」と主語を訳す必要はないし、また、誰を愛しているかは私自身が百も承知なのだから、わざわざ「あなた」と訳す必要もないし、さらに、「ずっと」と訳しさえすれば、「愛し続けたい」など、willを訳す必要もないからだ。

 ホイットニー・ヒューストンには似合わないが、「いつまでもお慕い申し上げておりますわ」でもよかろう。

 答案に書いて、点が貰えなかったとしても、責任を負わないので、悪しからず。

 まあ、中一程度の英語力しかない私が何を言っても、全く説得力がないけど!笑



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