1 日常用語と法律用語の乖離(かいり)?
民法を学び始めて戸惑った言葉の一つが「善意」・「悪意」だ。
私だけでなく、世間の人も戸惑うようで、国立国語研究所は、次のように述べている(下線:久保)。
「一般的な意味での「善意」は「よい心,親切な心」という意味ですが,法律用語の「善意」は「ある事実を知らないこと」という全く異なる意味になります。「善意」の対義語である「悪意」も同様です。一般的な意味の「悪意」は「悪い心,人に害を加えようとする気持ち」ですが,法律用語では「ある事実を知っていること」という意味になります。このように同じ語であるのに,日常的に使われる時の意味と法律用語で使われる時の意味が異なるものがあるのです。」
「現在使われている法律用語の基盤は明治時代に遡ります。明治時代は文化,学術等,様々な文物が西洋からやってきました。その際,それらの概念を日本語として受け入れるために,当時の人々は漢語を使って翻訳をするという方法をとりました。法律についても同様です。日本は近代西洋の法典(特にフランスやドイツ)の翻訳を通して,近代的な法体系を作りあげていきました。その際に漢語を多用したことが,法律用語がわかりにくくなってしまった原因の一つです。漢語は漢字を組み合わせることで,新しい言葉を容易に生み出すことが出来る反面,言葉が難解になってしまい,専門外の人にはわかりにくいという欠点があります。また,もともと外国語だったものを日本語に翻訳したことで,混乱を招いたり,日本語として無理があったりする言葉も生まれました。先ほど例に挙げた「善意」「悪意」は原語を翻訳することによって,法律用語と日常のことばとの間で意味に大きな隔たりが生まれてしまった例です。法律用語が難しいのには,以上に挙げたように法律用語の成り立ちが少なからず影響を与えている面があります。」
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-29/
素直な学生は、「日常用語とは異なり、法律用語では、善意とは、ある事実を知らないことをいい、逆に、それを知っていることを悪意というのだ。」と丸暗記して、先に進む。
しかし、天邪鬼(あまのじゃく)な学生だった私は、ある事実を知っているか否かであれば、「不知」又は「既知」と翻訳すれば足りるはずなのに、西洋へ留学し優れた成績で学位を取得した幕末・明治の人たちは、なぜ「善意」・「悪意」と翻訳したのだろうかと疑問を抱いてしまったのだ。
教科書を見ても、法律用語辞典を見ても、この点について説明がないから、自分で調べて考えるしかなかった。
2 日本語の日常用語としての「善意」と「悪意」
まず、日本語の日常用語としての「善意」と「悪意」の定義を確認しておこう。
『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば、
「善意」とは、「① よい心。善良な心。立派な考え。」、「② 他人のためを思う心。親切な心。好意。また、他人の良心を信ずる心。好意的に他人を見ようとする心。」をいう。
「悪意」とは、「① 悪い心、気持。悪心。」、「② 他人をいやがらせ、害を与えようとする気持。いじわるな気持。また、そのような見方。わるぎ。」、「③ 悪い意味。受け手が悪くとった意味。「悪意に解釈する」「悪意にとられては困る」など。」をいう。
3 法律用語としての「善意」と「悪意」
次に、法律用語としての「善意」と「悪意」の定義を確認しておこう。
例えば、『法律用語辞典第4版』(有斐閣)は、次のように解説している(ゴシック体・下線:久保)。
「善意」とは、「法律用語としては、ある事実を知らないことをいい(例、民九四②・一九二等)、ある事実を知っていることをいう悪意に対する。いずれも、日常用語とは異なり、道徳的意味を含まない。なお、ある事実を疑わしいと思っている場合も、積極的に知っているとはいえないので、占有の場合(一六二②・一八九・一九二等)を除き、通常は善意に当たる。」
「悪意」とは、⑴「ある事実を知っていることをいう。道徳的な善悪とは無関係。例えば、民法の不当利得に関する「悪意の受益者」(七〇四)は、自分の受けた利益が法律上の原因なしに得た利益であることを知っていながら利益を受けた者の意。ある事実の存否について疑いをもっただけでは、悪意があったと解されない。」
⑵「例外的に、他人を害する意思。例えば、離婚原因の一つとして民法が規定する「悪意で遺棄されたとき」など(七七〇①[2])。」
3 西洋における「善意」と「悪意」
『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば、法律用語としての「善意」と「悪意」の初出は、「仏和法律字彙(1886)」なのだそうだ。
加太邦憲、藤林忠良 編『仏和法律字彙』は、国会図書館に収蔵されているが、インターネットでは公開されていないため、未確認なのだが、末川博編『全訂法学辞典』(日本評論社)の「善意」には、「bonne foi,guter Glaube」が挙げられているので、おそらくフランス語の「bonne foi」を「善意」と翻訳したのだろう。
また、同様に、末川博編『全訂法学辞典』(日本評論社)の「悪意」には、「mauvaise foi, böser Glaube ,Arglist,dolus malus,mala fides」が挙げられているので、おそらくフランス語の 「mauvaise foi」を「悪意」と訳したのだろう。
ここで、まず、押さえるべきは、決して、「不知」を意味するフランス語の「inconnu」、「ignorance」(英語のunknowing、without knowledgeに相当する。)を「善意」、「既知」を意味するフランス語の「connu」(英語のknown、knowledgeに相当する。)を「悪意」と翻訳したわけではないということだ。
では、法律用語としての「善意」と「悪意」の原語であるフランス語の「bonne foi」と「mauvaise foi」とは、どのような意味なのだろうか。
フランス語bonneは、英語のgoodに相当し、「良い、善良な、親切な」という意味であり、フランス語foiは、英語のfaithに相当し、「信仰、信頼、信用」という意味だから、フランス語「bonne foi」(英語のgood faithに相当する。)は、ワンセットで「誠意、誠実、善意」を表す熟語として用いられている。語源は、ラテン語のbonafidesだ。
ラテン語bonafidesは、bonus(英語のgoodに相当する。)と fidēs(英語のfaithに相当する。ローマ神話の信頼(信義)の女神フィデースに由来する。)からなり、善意、誠意、誠実という意味だ。
フランス語mauvaiseは、英語のbadに相当し、「悪い」という意味であり、フランス語foiは、英語のfaithに相当し、「信仰、信頼、信用」という意味だから、フランス語「mauvaise foi」(英語のbad faithに相当する。)は、ワンセットで「不誠実、悪意、虚偽、自己欺瞞」を表す熟語として用いられている。
フランス語mauvaiseは、「悪い、邪悪な、邪な」を意味するラテン語malfatiusが語源だ。
※ 余談だが、フランス語の「bonne foi」と「mauvaise foi」は、誠実か不誠実かに力点を置いた熟語であり、おそらくキリスト教の教義ないしキリスト教的倫理観から見て誠実か不誠実かというニュアンスがあるのではなかろうか。フランス人に確かめたわけではないのだが。
このようにフランスにおいて、日常用語としても法律用語としても用いられている「bonne foi」と「mauvaise foi」は、日本語の日常用語としての「善意」と「悪意」とほぼ同義だと言える。
そこで、フランス語の「bonne foi」と「mauvaise foi」を言語通りに「善意」と「悪意」と翻訳したわけだ。
従って、「「善意」「悪意」は原語を翻訳することによって,法律用語と日常のことばとの間で意味に大きな隔たりが生まれてしまった」という国立国語研究所の説明は、間違っていることになる。
4 法律用語としての「善意」と「悪意」の意味の変遷
このように当初は、法律用語としての「善意」・「悪意」と日常用語としての「善意」・「悪意」は、同じ意味だった。
しかし、日常用語としての「善意」・「悪意」の概念は、広く、それ故に、不明確であることは否めない。
すなわち、他人のためを思って善行をする場合もあれば、意図せず(知らず)に善行をする場合もあるように、一口に「善意」と言っても、「善良な心」から「不知」まで幅がある。
同様に、害意をもって悪行をする場合もあれば、悪いと知りながら知らぬ振りをしたり見て見ぬ振りをしたりする場合もあるように、「悪意」にも、「害意」から「既知」まで幅がある。
国民の権利義務に関わる法律用語がこのように不明確であって良いのだろうか。特に、前述した民法第770条第1項第2号の「配偶者から悪意で遺棄されたとき。」の「悪意」は、「他人を害する意思」をいうが、これを「悪意」一般に含めるべきなのか、それともこれを「悪意」の例外として位置づけるべきなのかが問題となる。
民法は、法律用語としての「善意」・「悪意」を日常用語としての「善意」・「悪意」と同じ意味に解して、「他人を害する意思」を「悪意」一般に含めた上で条文を定めている。
しかし、実際に民法の条文で用いられている「善意」・「悪意」の大多数は、「不知」・「既知」の意味だから、法律用語としての「善意」・「悪意」は、原則として、ある事実の「不知」・「既知」を意味し、民法第770条第1項第2号の「悪意」については、例外的に「他人を害する意思」を意味すると解した方が「悪意」概念が明確になる。
そのためだろうか、民法の起草者の一人である富井政章先生は、明治30年(1897年)に出版された『民法總論 第二巻』(八尾商店)の192頁・193頁で、民法に「善意」・「悪意」という言葉が用いられた理由を次のように述べておられる。
すなわち、「善意惡意ナル語ハ甚(はなはだ)妥當(妥当)ナラスト雖(いえど)モ譯語(訳語)トシテ久シク行ハレ誤解ヲ來(き)タスコトナカルヘキニ因(よ)リ新民法ニ於(おい)テハ便宜上屡(しばしば)之(これ)ヲ用ヒタリ唯(ただ)事實(事実)ヲ知レルト否トノ意義ニ過キス特に損害ヲ加フル意思ノ有無ヲ問ハサルナリ」とある(ルビ・常用漢字・下線・ゴシック体:久保)。
ところが、明治末から大正時代にかけて「民法といえば鳩山、鳩山といえば民法」と云われ、一世を風靡(ふうび)した鳩山秀夫東京帝国大学教授は、鳩山一郎首相(「宇宙人」を自称する鳩山由紀夫首相の祖父)の弟で、ドイツ民法学を研究して、現在の精緻な民法学の基礎を確立した立役者なのだが、この鳩山教授が東京帝国大学を卒業したわずか2年後(明治43年・1910年)に発表し、現代の法律行為論の礎を築いた出世作『法律行為乃至時効. 第1分冊』(三書楼)の218頁には、「抑(そもそ)モ善意トハ或事(あること)ヲ知ラサルコトヲ謂(い)フ」とある(ルビ・下線・ゴシック体:久保)。
つまり、鳩山教授に至っては、フランス語の「bonne foi」と「mauvaise foi」を日本語の日常用語としての「善意」と「悪意」と翻訳した経緯を捨象して、そもそも善意とはあることを知らないことをいうと言い切っているわけだ。
ただ、戦前の法律用語辞典や民法の教科書などを悉皆(しっかい)調査したわけではないのだが、少なくとも大正11年(1922年)までは、富井先生と同様に、法律用語としての「善意」・「悪意」が、日常用語としての「善意」と・悪意」と同義であることを前提に、民法などでは知っているか否かに限定して用いられることがあるという理解が行われていたように思われる。
すなわち、大正11年に出版された木川又吉郎 等編『現代大辞典』(大日本教育通信社)によれば(下線・ルビ・常用漢字:久保)、
「善意」とは、「善良なる意思といふ(う)意であるが、寧(むし)ろ或事實(ある事実)を知らなかつたと云ふ意味に解するのが至當(至当。しとう)のや(よ)うである。例へ(え)ば十年間所有の意思を以(もっ)て平穏且(か)つ公然に他人の不動産を占有した者が其(その)占有の始め善意で且つ過失がなかつたときは其不動産の所有權を所得する。(民一六二条第二項)と云へば占有者が占有の初めに於(おい)て其物が他人の所有物であることを知らないで占有を始めたことを意味するのである。(民一六二、一五、五四、九四、一八六、一八九、一九一、一九二、四六六、五六三、五六四、七〇七、商七、一二、三〇、九一)」
「惡意(悪意)」とは、善意に對(対)する語で、普通惡意とは道義観念に反する意思の働き又は故意を指稱(指称)してゐ(い)るが、民法などでは行為の當時(当時)知つてゐた事實(事実)を自己の利益の爲(た)めに知らないふりをしてゐることを惡意と稱(称)することがある。例へば第三者に權利の移轉を當事者と約して知らないふりをするが如きは其者に惡意ありと云ふべきである。(民1889至一九〇、五六四、商二八八)」
ところが、少なくとも昭和5年(1930年)になると、法律用語としての「善意」と「悪意」は、日常用語としての「善意」と「悪意」とは異なる言葉であって、現代と同じように、ある事実を知らないことを「善意」、これを知っていることを「悪意」というと限定的に理解されるようになっており、他の言葉で翻訳すべきだったとさえ言われている。
すなわち、昭和5年に出版された渡部万蔵『現行法律語の史的考察』(万里閣書房)の47頁には(下線・ルビ・常用漢字:久保)、
「善惡は倫理規範乃至(ないし)社會(社会)通念上の善惡と異なり、法律上或(あ)る法律關係の發生(発生)、消滅及其(その)効力に影響を及ぼすやうな事實(事実)の存在を知らないを善(民法一六、三二、五四、九四、九六、一一二、一六二、一八六、一八九、一九二、四七二、七〇七、七八七條等)とし、之(これ)を知つてゐるのを惡(民法一九〇、一九一、一九二、六九八、七〇四、八一三、八六六、一〇二四條)とし、其自己の過失に出たと否と、又其の受動的であるのと能動的であるのとを問はない、されば之を善惡としないで最初から他の妥當(妥当)な語辭(語辞)を採擇(採択)すべきであつた。」とある。
以上、要するに、「善意」「悪意」は、原語通りに翻訳することによって、法律用語としての「善意」・「悪意」と、日常用語としての「善意」・「悪意」との間に大きな隔たりはなかったのだが、法解釈の結果、両者の間に大きな隔たりが生まれてしまったというのが真相だった。
「善意」・「悪意」という慣れ親しんだ法律用語がなくなるのは、一抹の寂しさを覚えるが、これによって困る国民はいないので、将来的には民法改正により、「不知」・「既知」というような言葉に改められるかも知れない。
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