明治以前の日本には、権利概念が存在しなかった。なぜ日本で権利概念が生まれなかったのか。
日本の学会は、左翼に牛耳られている。進歩史観・階級闘争史観という色眼鏡でしか歴史を見ることができない左翼学者には、この謎は解けまい。
私見にすぎないが、権利概念を必要としなかったからだと考える。
すなわち、英国では、マグナ・カルタ(1215年)、清教徒革命(1640年代)、名誉革命(1688年)のように、王と国民との間に対立抗争があり、王権を制限するために、権利概念が生まれた。
これに対して、日本では、天皇と国民が血で血を洗う対立抗争をしたことが一度もなく、天皇は、時代を経るにつれて政治的実権を失い、権威のみを有するようになり、天皇の統治は、実体を伴わない象徴的な支配にすぎなくなった。
また、保元の乱や平治の乱のように、天皇側と上皇側に分かれて対立抗争したことがあるけれども、武士が天皇を武力で打倒して自ら君主になろうとしたことは一度もなく、むしろ天皇の権威を借りて自らの正統性を主張し、統治した。
このように日本では、抑圧する権力としての天皇に対して、国民が抵抗し権利を要求するという対立状況が存在しなかったから、権利概念を必要としなかったのだ。これが日本で権利概念が生まれなかった理由であると考える。
これに対しては、武士は、庶民を弾圧していたではないかという反論が考えられる。
確かに、武士は、領民を統治したけれども、戦さをする際には、農繁期を避け、壇ノ浦の合戦、川中島の合戦、関ヶ原の合戦等のように、領民に迷惑がかからない場所を戦場にし(応仁の乱などにより京の町が焼失した反省に基づく。)、領民を戦火に巻き込まぬように町を城壁で囲んだりせずに、砦や城を作って武士同士で戦った。
例えば、「天下分け目の戦い」と言われた関ヶ原の合戦は、東西両軍合わせて約17万人で、半日戦って終了し、戦死者はたった約8,000人にすぎず、民間人は一人も死んでいない(これに対し、英国では、例えば、清教徒革命の三王国戦争では、14年間も戦争し、イングランドとウェールズの非戦闘による死者127,000人(民間人40,000人を含む。)で、 合計868,000人以上の死者だった。)。庶民は、合戦を一大イベントの如く高みの見物をし、中には戦死者の甲冑や武器を盗む者もいた。
また、年貢や賦役は、昔は年貢がもっと軽かったとか、年貢が高すぎるのは道理に合わないという風に、先例や道理に基づいて慣習的・交渉的に決まった。苛政は、一揆の対象になり、逆にお家お取り潰しの理由になったので、一方的な弾圧をなし得なかった。むしろ武士は、君子として明君たらんとした。
つまり、武士の統治は、穏やかだったからこそ権利概念が発生する契機が欠けていたのだ。
だからなんなの?と思われるかもしれないが、日本文明の特異性・独自性という世界史的意義がある。
すなわち、日本が、権利概念を必要とせずに、一定の自由と秩序の共存を成し遂げた世界的にも稀有な国だということを示しているのだ。
西洋では、国王が権力を有し、権力を行使して秩序を維持するのに対して、国民は、自由を守るために、権力に抵抗する権利を主張した。権利は、自由を守るための道具だったのだ。
換言すれば、権利は、国王の権力と国民の自由との対立を調停し、秩序と自由を共存させる道具だったのだ。
ところが、日本では、絶対的な支配者による強権的支配がなく、慣習法や道徳によって秩序が内発的・自律的に維持され、自由が保障されていた。
例えば、寺社建築の金剛組が578年創業で現存する世界最古の企業であり、山梨県西山温泉の慶雲閣が705年創業として、ギネスブックで最古の旅館に認定されているように、世界の創業年数が100年以上の企業のうち、日本の企業は50%、創業200年以上では65%であり、古代から営業の自由が保障されていたことを表している。
つまり、日本は、権利概念なくして自由を実現し、秩序と共存していたわけで、世界的に極めて珍しい国なのだ。
権利概念なき自由国家、これが日本の本来の姿なのだ。
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