新規採用職員など若手職員向けの法律研修では、戒めのために、「法の不知はこれを許さず」という注意書をテキストに盛り込んでいる。
休み時間にある受講者から、なぜ「法の不知はこれを許さず」なのかと訊かれたので、ここにも書いておこう。
ローマ法の法諺(法に関する格言)に、Ignorantia legis neminem excusat.イグノーランティア・レーギス・ネーミネム・エクスクーサト、がある。
直訳すれば、「法の不知は誰も許さない」なのだが、我が国では「法の不知はこれを許さず」という訳が流布している。
「そんな法があるなんて知らなかった!」という言い訳は通用しない、という意味だ。
刑法第38条第3項本文に、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」と明文化されている。
余談だが、似た言葉は、旧約聖書(聖書協会共同訳)の『レビ記』にもある。
「05章 17節 もし人が違反した場合、すなわち、主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて違反した場合、そうと知らなくても、その人は罪責ある者となり、罰を受ける。」
モーゼの十戒(出エジプト記20章)は、知・不知を区別していないので、知・不知を問わず、十戒に違反してはならないからだ。
話を戻すと、なぜ「法の不知はこれを許さず」なのか?
ローマ法の専門家ではないので、間違っているかも知れないが、およそ4つ理由が考えられる。
1 法を知らなければ守りようがないから、法が公布されることになっている。法の公布によって、すべての国民が知ったと擬制される。もし公布後に、知らなかったという言い訳が許されるとすれば、公布制度の趣旨が没却されるから、公布後は、知らなかったという言い訳は許されない。公布説とでも呼ぼう。
2 法を知らなかったという言い訳が通用し免責されるならば、たまたま法を知っている者とたまたまこれを知らない者との間に不公平が生ずる。全ての人を法の下に平等に置くためには、法の不知を許してはならない。公平説(平等説)とでも呼ぼう。
3 法を知らなかったという言い訳が通用し免責されるならば、誰もがこの言い訳をして罪を免れることが可能になって、社会秩序を維持できない。社会秩序維持説とでも呼ぶとする。
4 法を知るべきなのに知らなかった点で落ち度があり、非難されるべきだから、法の不知を許してはならない。責任説とでも呼ぼう。
この問題は、刑法総論では違法性の錯誤の問題として議論されている。
違法性の錯誤とは、行為者が、錯誤(平たく言えば、勘違いのこと)によってその行為が法律上許されないことを知らないこと、すなわち、違法性の意識を欠くことをいう。
①行為が法律上許されないことを全く知らない場合と、②行為が法律上許されていると誤信した場合とを含む。
この違法性の錯誤は、前述したように、刑法第38条第3項本文には、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」と定められていることから、故意が認められるためには、違法性の意識が必要かどうかという問題に帰着する。
行政実務は、判例に従って行われるので、実務担当者は、裁判所の考え方に従えばよい。
裁判所は、故意が認められるためには、違法性の意識を必要としないという立場をほぼ一貫して採っており、刑法第38条第3項本文は、当然の事理を定めたものということになる。従って、違法性の錯誤の場合であっても、故意が認められることになる。
前述の公布説、公平説(平等説)、社会秩序維持説と整合する文理解釈だ。
ただ、道義的責任を追及するという道義的責任論に立脚する限り、故意が認められるためには、違法性の意識が必要だから、違法性の錯誤の場合には、故意が認められないと解するのが論理的に一貫する。
この立場に従えば、刑法第38条第3項本文は、いわゆる当てはめの錯誤、すなわち、行為者が自己の行為に適用される具体的な処罰規定を知らないからといって故意が認められないわけではない、と縮小解釈することになる。
学生時代は、若気の至りで、論理的一貫性の美学に惹かれて、この立場を採っていた(苦笑)。
違法性の錯誤に関する学説は、他にも多岐にわたるので、興味のある人は、刑法総論の教科書を読まれるとよいだろう。
0コメント