自己責任と寛容なくして自由なし

 元大阪府知事・大阪市長を務めた弁護士の橋下徹氏は、3男4女の父。3人の息子さんのことで悩んでいるようで、同じく3人の息子さんがいるサッカー日本代表の森保一監督に、次のように相談した。

 「僕は大学に行くも行かないも自由だと思っているんですけど、もうみんな成人になっているんですよ。大学に行くんだったら働かなくてもいいと。当然、家から通ったら支えると。大学も行きたくないって言い始めて、それだったらもう、家から出て行って自分で働けと。だから、大学行くか家出るかどっちかや!ってみんな言っているんですけど、3人ともその中間を求めてくるんですよ。大学は嫌だと。だけど今すぐ働きに行くのも、まだあれだから、もうちょっと子供なんだから支えてくれへんのかという」と説明。「この中間はどうなのか?」

 橋下氏の3人の息子さんは、大学は嫌で、今すぐ働くのも嫌だという主旨のことを述べているが、その理由が分からないので、決めつけは避けなければならない。


 そこで、一般論になるが、世間では、学校に行かず、働きもしないで家にいる息子に対して、「穀潰し」「道楽息子」「プー太郎」などと批判的だ。何か資格を目指して勉強しているかも知れないのに、事情を知らぬ他人が陰口を叩くのだ。

 学校へ行き、社会に出て働き、一家を構えるという世間並みのレールから外れると、生活するのが難しくなることを知っているからこそ、安全策を採るよう仕向けるために、同調圧力として世間の目が厳しくなるのだろうか。


 しかし、親に経済的余裕があり、息子が学校に行かず、働きもしないで家にいること(モラトリアムの延長)を許しているのであれば、犯罪を犯すなどの違法行為をしない限り、個人の自由であり、構わないのではないか。学校に行かない自由もあれば、働かない自由もあるのだから。

 ただし、自由には責任が伴う。自らの意思で他人と異なる道を歩む以上、失敗しても自己責任だ。これだけは、人生の先輩として親がしっかりと息子に教えなければならない。


 このように息子に対しては、世間は手厳しいのに対して、昔から、ご隠居さんに対しては、世間は寛容だった。

 少なくとも江戸時代から、武士も庶民も、家督を子供に譲って第一線を退き、趣味や地域社会との交流を楽しむ隠居生活を送った。例えば、伊能忠敬は、隠居後に測量機を買って全国を測量して偉業を達成したように、多くの人がセカンドライフを楽しみ、さまざまな文化を発展させた。

 すでに十分働いたということも理由であろうが、働かないこと自体は悪ではなかったのだ。


 ところが、「ニート」や「ひきこもり」という新しい言葉が生まれた頃から、学校に行かず働きもしないことが悪であるかの如き言説が増えた気がする。自らの生活が苦しいため、不労所得に対する嫉妬や妬みかも知れない。


 この点、アメリカ人の中にも、働かずに悠々自適の生活を送る人々に対して、痛烈な批判を浴びせた人がいる。

 1899年、アメリカの経済学者・社会学者であるヴェブレンは、土地や株式などの資産を持ち、自らは生産的な労働をせず、自由な時間(閑暇)を社交や娯楽に費やす人々を「有閑階級」と呼んで、労働をせずに、富や地位を誇示するために怠惰や娯楽に浸りながら(顕示的閑暇)、富や地位を誇示するために無駄な消費(顕示的消費)を行う心理と構造を鋭く批判した(『有閑階級の理論』岩波文庫)。


 確かに、勤勉の精神及び合目的性の精神から成る資本主義の精神(ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫)からすれば、かかる批判も致し方ないのかも知れない。


 ただ、遊んで暮らして身代を潰すのは、愚かではあるが、それも個人の自由ではないか。


 例えば、働かずに趣味や芸術に明け暮れる生活が果たして悪いことなのだろうか。多くの芸術家は、パトロンからの支援を受けて、生活していたからだ。

 

 西洋キリスト教文化の文脈において、ヴェブレンは、労働を神聖視し過ぎているきらいがある。キリスト教では、労働は罰であるから、労働しなくても生きていけることは、素晴らしいことではないのか。


 ヴェブレンは、生産的労働を善とし、有閑階級の非生産的活動(芸術、学問、スポーツ、社交)を無駄・怠惰と切り捨てたが、このような非生産的活動こそが文化を発展させてきたという側面を無視している。


 お金は、天下の回りもの。有閑階級が高級品を買うこと(顕示的消費)によって、お金が回り、社会全体が豊かになることを見過ごしているのではないか。


 人が高級品を買うのは、他人に見せびらかす(顕示)ためだけではない。単なる見栄ではなく、自分の信用度・能力・趣味嗜好を相手に瞬時に伝える合理的な手段(シグナル)なのだ。


 成り上がりは、ブランドのロゴがデカデカと入った物を持ちたがるが、上流階級になるほど、ブランドのロゴがデカデカと入った物を持ちたがらず、ロゴが表面になく、又は表面にあっても目立たない上品な物を買って大事に使っている。


 上流階級かどうかは、単なる富の見せびらかし(顕示的消費)ではなく、言葉遣い、趣味嗜好、立ち居振る舞いなどの文化的な洗練さによって判断されるのであって、それは家庭によって育まれる。ヴェブレンは、成金に偏った見方をしているのではないか。


 ヴェブレンとは異なり、1912年、ドイツの経済学者ゾンバルトは、有閑階級をモラルや経済的無駄という観点から批判せず、むしろ彼らの贅沢・奢侈が近代資本主義という巨大な経済システムを誕生させるために大きな役割を果たしたと積極的に評価している(『恋愛と贅沢と資本主義』講談社学術文庫)。

 宮廷貴族や新興成金が愛人を囲う文化が定着すると、女性たちは、絹、香水、砂糖、鏡、陶磁器などの最高級品(贅沢品)を求めるようになり、これに応えるために、初期の大量生産システムや遠方から商品を調達する商業ネットワークといった産業が誕生し、やがて一般消費財の生産へと拡大していくわけで、贅沢がなければ、今日の工場も流通も大都市も存在し得なかったと言うわけだ。一理ある。


 ずいぶん話が大きくなってしまったが、働かなくても生活することができる資産があるのは、結構なことではないか。

 多くの人も、これを望んでいるのに、自分の欲望・願望を隠して富裕層を批判するのは、品性が卑しく、矛盾している。

 このような卑しい批判を正当化しようとするイカれた思想が、平等思想や社会主義・共産主義だ。


 我が国は、自由主義・資本主義に立脚しているのだから、親に経済的余裕があり、息子が学校に行かず、働きもしないで家にいることを許しているのであれば、これも自由であると認める寛容さが世間に求められているのではないか。

 


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