生徒 せんせい!こんにちは♪
老先生 こんにちは。
生徒 ちょっと質問があるのですが、よろしいでしょうか?
老先生 なんじゃね?
生徒 以前、我が国の法制度の多くは、キリスト教文化、ゲルマン文化、古代ギリシャ・ローマ文化を背景としているという趣旨のことをおっしゃっていましたが、なぜこのような異質な外国文化を背景とした法制度ではなく、我が国の伝統文化を背景とした法制度を設けなかったのでしょうか?なぜ我が国は、伝統・慣習を重んじるイギリスのような不文法主義(非制定法主義)を採らなかったのですか?
老先生 いきなり難しいことを訊きよるわい!苦笑
う〜ん、ひとことで言うと、法を定める方法としては、①イギリスのように条文の形で法を定めない不文法主義(非制定法主義)、②ドイツ・フランスのように条文の形で法を定める成文法主義(制定法主義)があるんじゃが、1858年に締結された日米修好通商条約という不平等条約を解消するためには、西洋諸国のような近代的な法制度を整備したことを国外に明確に示す必要があるため、②の成文法主義(制定法主義)を採ったんじゃよ。
そして、成文法主義(制定法主義)には、③ドイツ・フランスのように国内の慣習を集めて順序立てて並べて一つの法典にまとめる方法と、④外国の法典を翻訳し、国情に合わせて修正して法典を制定する方法があるんじゃが、我が国の慣習があまりにも多様であるため、これを統一することが困難だったので、④の方法を採ったんじゃ。
生徒 はぁ〜???
老先生 1854年に黒船に乗ったペリーが来航し、幕府とアメリカ合衆国との間で日米和親条約が締結されたことは、知っておろう。この条約により、下田と函館を開港し、アメリカ人の上陸等を許可したのじゃが、貿易は認めておらなんだ。
そこで、貿易を認めさせるために、合衆国総領事ハリスが幕府と締結したのが日米修好通商条約じゃ。この条約が不平等条約であると言われる所以(ゆえん)は、①領事裁判権の承認と②自主関税権の放棄じゃ。
すなわち、①外国人が日本国内で犯罪を犯した場合には、その外国人の母国の領事が母国の法律に基づいて裁判を行うといういわゆる治外法権を認めさせられたわけじゃ。また、②国家は、自国の産業を保護するために、外国から輸入する商品に関税を課すことができるのじゃが、この関税額を自主的に決定することを放棄させられたのじゃ。
生徒 うわー!本当に不平等ですね!!
老先生 うむ。
この日米修好通商条約は、合衆国の圧倒的な軍事力を背景に、天皇陛下の御裁可を経ずに幕府が勝手に締結したものであったが、明治政府は、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、この条約を誠実に履行しつつ、不平等を解消するために、近代的な法制度を整備していったのじゃ。そして、日清・日露戦争に勝利して、我が国の国際的地位が高まり、やっと1911年に条約を改正して、不平等を解消することに成功したんじゃな。締結から改正まで、なんと53年かかったんじゃ。
どこかの国の大統領は、「一度合意したから全て過ぎ去ったと終わらせることはできない」と国家間の合意を軽んじて、簡単に反故(ほご)にしてよいと考えておるようじゃが、本当に弁護士なのかと疑問に思わざるを得ない。
話を戻すと、不平等条約を解消するためには、なんとしてでも西洋諸国から認められるような近代的な法制度を整備せねばならぬ。例えば、民法典もこのような政治状況の下で編纂(へんさん)作業が行われたのじゃ。
ところで、この民法典編纂に携わった穂積陳重(ほづみ のぶしげ)先生の『法窓夜話』という本を読んだことがあるかの?
生徒 いいえ。
老先生 岩波文庫に入っておるし、また、青空文庫にも入っておるからネットで無料で読むことができる。古今東西の法に関する興味深い逸話が盛り沢山のエッセーじゃから、暇を見つけて読んでみるがよい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000301/files/1872_53638.html
穂積陳重先生、梅謙次郎(うめ けんじろう)先生、富井政章(とみい まさあき)先生は、「明治民法三博士」と呼ばれておるんじゃが、穂積先生は、『法窓夜話』の中で(「九六 梅博士は真の弁慶」)、この3人からなる民法典起草員会において、梅先生は、2人の意見を受け入れるが、総会においては、原案を維持すべく、反論に対して舌鋒鋭く反駁(はんばく)したのに対して、富井先生は、沈思黙考型で、起草委員会では自説を曲げないのに総会では反論を受け入れることから、富井先生は内弁慶であるのに対して、梅先生は「外弁慶」で「真の弁慶」であると評しておられる。
生徒 なかなか辛辣(しんらつ)ですね!笑
老先生 3人の強い信頼関係があればこそじゃな。
この3人のうち、主導的役割を果たし、「民法典の父」と呼ばれる梅先生は、12歳の時に、頼山陽(らい さんよう)先生の『日本外史』(にほんがいし)を藩主に講じた神童で、東京外国語学校(現:東京外国語大学)のフランス語学科を首席で卒業した後、司法省法学校(現:東京大学法学部)に首席入学し、病気のため卒業試験を受験していないのに平常点だけで首席で卒業しておられる。そして、国費留学生としてフランスへ留学し、飛び級でリヨン大学の博士課程に入学し、首席で卒業しておられる。
穂積先生曰く、梅先生は「非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人」であったそうで、伊藤博文総理も、穂積先生や富井先生に対しては「君づけ」で呼んだのに対して、梅先生にだけは「先生」と呼んだほどじゃ。
生徒 すごい秀才ですね!
老先生 そうじゃのう。様々な分野で天才・秀才をきら星の如く輩出した時代が明治であったと言えるの。学校やマスコミが繰り返し国民に刷り込もうとしている進歩史観では江戸時代は暗黒時代であると捉えられておるが、明治を生んだ江戸時代の教育が再評価されてしかるべきじゃと思うておる。
まあ、それはともかく、「非常に鋭敏な頭脳」を持っておられた梅先生が、そなたが抱いた疑問を抱かぬはずがないとは思わぬかの?笑
生徒 おっしゃる通りです。先生もなかなか辛辣ですね!笑
老先生 信頼関係があればこそじゃよ♪笑
西洋諸国の法典は、国が勝手に作ったわけではなく、慣習を文章化して順序立てて一つの法典にまとめたもので、それが可能だったのは、イギリスのコモン・ロー(common law)や、ローマ法や教会法における一般法(jus commune)のような共通した慣習や良俗の統一があったればこそなんじゃ。
ところが、我が国では、幕府の支配に抵触しない限り、各大名の領地支配を認めていたから、幕府の御法度(ごはっと)だけでなく、各藩ごとに御法度があるという重層的な法体系であって、統一した法体系ではなかったんじゃ。慣習法も地域によって千差万別だったんじゃよ。
梅先生も、「法典ニ関スル話」という講演の中で、「従来ノ慣習ヲ集メテ之ヲ編ムモ今日ノ所謂法典ト為スニ足ラズ」と述べておられる(『國家學會雑誌』第134号)。
織田信長公が本能寺の変で倒れずに絶対君主制を確立していたら、法体系・慣習法が統一され、西洋化も容易だったかも知れんの〜。我が国が絶対君主制を経なかったところが、西洋と異なる点じゃな。
生徒 なるほど。そもそも統一した法体系がない上に、慣習法が多岐に分かれているため、イギリスのような不文法主義(非制定法主義)はもちろんのこと、フランスやドイツのような、慣習を集めて統一した法典を作るという西洋式のやり方が困難だったのですね!
老先生 そうなんじゃ。
もちろん、フランス・ドイツのように、慣習を集めて統一した法典を作るという西洋式のやり方がベストなのは明治の人たちも分かっておった。国民も納得するし、法の実効性が高くなるからの。
そこで、1876年(明治9年)から1880年(明治13年)にかけて司法省(現:法務省)が全国の慣習法を調査したんじゃよ。その結果をまとめた『民事慣例類集』と改訂増補版である『全国民事慣例類集』を見ると、地域間の慣習法の違いに驚きを禁じ得ない。
国会図書館のHPで公開されており、PDF化してDLできるようになっておるから、興味があったら見るがよかろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787052
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/786945
例えば、江戸時代の相続は、長男が相続するのが一般的だったようじゃが、伊豆国田方郡では「男女ニ限ラス総テ年長ノ者相続スルノ権アリ」とされ、常陸国新治郡でも「男女ニ限ラス先ニ生レシ者相続スル風習ナリ」とされていたのに対して、陸前国宮城郡では「男子ノミ相続ノ権アリ女子ハ総領ト雖モ相続ノ権ナシ若シ兄早世スレハ二番ノ姉相続セス三 番ノ弟相続ス若シ先相続人ノ子アリテ幼年ナルトキハ先相続人ノ姉又ハ妹ヘ婿ヲ取リ幼者ヲ 順養子トスルコトモアルナリ」とされていたんじゃ。
生徒 へぇ〜江戸時代に女性が相続できた地域があったなんて、存じませんでした!
老先生 他にもあるぞ。例えば、婚姻は、村役場に届け出て、宗門人別帳に変更を記載すれば、完了するのが一般的だったんじゃが、三河国渥美郡では「婚姻ハ届入籍ノ期限定ナシ家内和熟シ様子ヲ見届テ取計フ慣習ナリ」とある。つまり、届出後、嫁が嫁ぎ先の家族と仲良くなったことを見届けて初めて婚姻が成立したわけじゃな。
また、伊賀国阿拝郡では「披露ト号シテ所役人ヲ招宴シ始テ婚姻ノ成ルヲ表スコトナリ」とある。つまり、村役人を披露宴に招待して初めて婚姻の成立が完了したわけじゃ。
生徒 めっちゃ面白いですね!!
老先生 このように全国の慣習を集めても統一することができず、近代的な法典にならないことが分かっていたからこそ、梅先生は、「西洋ノ知識ヲ仮リテ之ヲ編纂セザルベカラズ」(前掲講演)とお考えになり、西洋の法典を翻訳して、我が国の国情に合わせて修正しようとなさったわけじゃ。不平等条約を1日でも早く解消したいという長年の悲願を達成するため、敢えて「木に竹を接ぐ」(ちぐはぐで釣り合いが取れないこと)道を選ばれたわけじゃな。
もちろん、これには強い反発もあった。
生徒 「民法出テゝ忠孝亡フ」ですね♪
老先生 いやいや、それは梅先生たちが編纂された民法よりも前の時代の話で、「お雇い外国人」であったフランス人のボアソナードが草案した民法草案(旧民法)に関する民法典論争において、穂積陳重先生の弟である穂積八束(ほづみ やつか)先生が発表なさった論文のタイトルじゃよ。キリスト教文化を背景としたボアソナード民法は、伝統的な我が国の家族制度などの淳風美俗や我が国の国体である先祖崇拝を中核とする宗教を破壊するというような主張じゃな。
生徒 あッ!そうだったんですね。。。ごちゃごちゃになっていました。苦笑
老先生 いや、「民法出テゝ忠孝亡フ」という考えは、梅先生たちが民法典を編纂していた頃にも根強く支持されていたので、あながち間違いというわけではない。
しかし、長年の悲願である不平等条約解消のためには、我が国の国情と必ずしも合致していなくても、西洋から見て法典の体裁が整ってさえいればいいのだ、不都合な点があれば修正すればいいのだ、むしろ西洋化が進んだ現状においては古来の慣習を墨守することの方が弊害が多いし、法典の力で悪慣習を排除すべきなのだ、ということで、旧民法典の修正作業が1896年(明治29年)に完了し、1898年(明治31年)に施行されたんじゃ。
もちろん「木に竹を接ぐ」ことには無理があるので、民法典の条文自体を国情に可能な限り合わせようとしているし、また、法例第2条(現:法の適用に関する通則法第3条)、民法第92条を設けて調整を図っておるんじゃよ。
生徒 分かりました。ありがとうございました!
cf.1法例(明治三十一年法律第十号)
第二條 公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セサル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ關スルモノニ限リ法律ト同一ノ效力ヲ有ス
cf.2民法(明治二十九年法律第八十九号)
(任意規定と異なる慣習)
第九十二条 法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。
老先生 ちなみに「民法」という翻訳語について、穂積陳重先生は、「民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多いが、独り「民法」だけは始めから一度も変ったことがなく、また他の名称が案出されたこともなかったのである。」と述べられておる(『法窓夜話』「五一 民法」)。
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