老先生 さて、古代ローマ時代にガリアと呼ばれた地域(現在のフランス)に先住していたケルト人は、ガリア人と呼ばれ、勇猛果敢で知られていた。実際、ユリウス・カエサル(英名:ジュリアス・シーザー)も、その著『ガリア戦記』で苦戦を強いられたことを正直に述べた上で、自ら陣頭指揮したローマ軍の勝利を誇っておる(カエサル著・國原吉之助訳『カリア戦記』(講談社学術文庫))。
タキトゥスによれば、ゲルマン民族の中で、ライン河を渡ってこのガリア人に初めて勝利した部族の名がゲルマニアであったことから、全部族が自分たちのことをゲルマニア人と呼ぶようになり、ローマ人もゲルマニア人が住む地域(現在のドイツ)をゲルマニアと呼ぶようになったそうじゃ。
このゲルマン人は、目が青く、金髪で、図体がでかくて馬鹿力を出し、渇きと暑さに堪えることには全く慣れていないが、寒さと餓えには平気で堪える獰猛な未開人で、過去ローマが戦ったどの民族・部族よりも強かったらしい。現在のドイツ人とイタリア人の体格差を見ても、納得じゃな。
ローマは、帝政期に入って平和に慣れて、気骨と剛毅を失い、柔弱になってしまったので、ローマ帝国にとってゲルマン人が最も恐るべき敵であると警鐘を鳴らすために書かれた本が『ゲルマニア』じゃ(タキトゥス著・國原吉之助訳『ゲルマニア アグリコラ』(ちくま学芸文庫))。この本が公刊されたのが98年。その378年後の476年に、まさか西ローマ帝国の傭兵隊長だったゲルマン人オドアケルが、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、西ローマ帝国が滅亡するとは流石のタキトゥスも夢想だにしなかったことじゃろう。
375年、このように強いゲルマン人がモンゴリアンである北方遊牧騎馬民族フン族に攻め立てられ、東ゴート族が服属し、西ゴート族が逃げ出して、ドミノ倒しの如く民族大移動を始めたんじゃから、何事にも世の中には上には上がいるもんじゃな。ちなみに、キリスト教徒であった西ゴート族が、ローマを占領した際に、新興宗教であるキリスト教が災いを招いたのだと非難されたため、聖アウグスティヌスが書いた反論本が『神の国』じゃ。
生徒 おっしゃる通りですね。上の地図を見ると、文字通り物凄い大移動ですね!
老先生 そうじゃの〜。
メルカルト図法の地図でヨーロッパを見ると広く感じるが、日本列島を面積の歪みを修正してヨーロッパに重ねると、日本は、EUの中で、フランス、スペイン、スウェーデンに次ぐ第4位の面積で、第5位がドイツということになるんじゃが、なんにせよ、よくもまあ〜歩き回ったもんじゃわい。
フランク族が樹立したフランク王国(現在のフランス)のカール大帝が、800年に西欧の覇権を握ったのは、フランク族の移動距離が短く消耗が少なかったこと、穀倉地帯をいち早く確保したことが理由の一つかも知れんの。
一般財団法人国土技術研究センターhttp://www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary02
「ゲルマン民族の大移動」と言えば聞こえが良いが、大量の難民が安息の定住地を求めて彷徨し、行く先々で原住民や時には同じ民族である部族同士で殺戮と強奪を繰り返す、残忍で惨めな逃避行だったわけじゃ。しかし、征服によって獲得した土地は、ゲルマニアよりも広大じゃった。
これがゲルマン社会自体を大きく変貌させることになるんじゃよ。
すなわち、このような殺すか殺されるかという弱肉強食の時代に集団が生き残るためには、卓越したリーダーシップと集団の結束が求められる。
そこで、指導者(王又は首長)と従者(従士)のつながりをより強固にするため、主君(封主)が征服した土地の一部(封土。レーン又はレーエンLehen)を家臣(封臣)に与え、家臣は主君に忠誠を誓う主従契約(封建契約)が締結されるようになり、封建制(レーン制)に発展したんじゃな。この封土は、家臣に軍役と主君邸への参向を義務付けるだけで、賦役・貢租・地代などを免除したので、「恩恵」であるとして恩貸地(恩給地。ベネフィキウムbeneficium)とも呼ばれたそうじゃ。
また、もう一つ大きな変化があるんじゃよ。民族大移動が少し落ち着きをみせ定住化が進むと土地への依存が強まり、征服による大土地所有とそれに伴う経済的不平等が自由人を没落させて、自由人と不完全な自由人が同一階層を形成するようになり、領主制(荘園制)が発展するんじゃ。
すなわち、敵から守ってもらうために、自作農が大土地所有者である領主へ農地を寄進してこれを借り受けて小作人になったり(プレカリアprecaria契約)、度重なる戦争によって自分が所属する氏族が弱体化又は消滅するなどして、氏族の保護を受けられなくなった農民が領主に保護を求めて自分の人格と所有を委ね、代わりに土地使用権を得て農奴になったり(託身。コンメンダティオcommendatio)するようになったんじゃ。
生きるためには食べねばならず、食べるためには食糧を自給しなければならないから、背に腹はかえられぬと身を落としたわけじゃな。
そして、絶え間なく続く領主同士の争いを解決するために、その地域における一番勢力のある領主を王として戴くゲルマン王国(部族国家)が誕生するわけじゃ。
地図を見ると、色分けされているため、近代国家と同じように国境線があると誤解されがちじゃが、以前、議会について説明した際に話したように(「議会今昔物語1」)、王国と言うても、国土も国民も主権もなく、大小様々な領主たちが主従契約(封建契約)によって結合したものにすぎないことに注意せねばならん。王と言えども、有力な貴族の一つにすぎず、貴族には私闘(自力救済。フェーデ)が認められていたので、国内の平和は、封臣である貴族が封主である王に従う限りで辛うじて保持されていた束の間の平和にすぎなかったわけじゃ。このことは、実際、興亡が目まぐるしい下記の地図を見れば明らかじゃな。
生徒 高校でゲルマン民族の大移動を聞いた時はみんなでお引越しするみたいなイメージだったんですけど(笑)、部族の存亡をかけて他人の土地を奪い合う血みどろの戦いで、これが原因でゲルマン社会が大きな変貌を遂げるんですね!
老先生 その通りじゃの。さて、いよいよそちが訊ねた裁判制度の話に移るとするかの。
このように多大な犠牲の上に獲得した複数点在する領地をきちんと治め、これを息子たちに継承させるためには、財産を管理し、領内の治安を維持する必要がある。
当時は普通税がほとんど知られていなかったから、領主の収入は、地代(夫役・生産物・金銭)、通行税、市場使用税、罰金の一部に限られておった。複数点在する領地からこれらの収入を徴収して記録を付け領主に納める所領管理人が設けられるようになるんじゃ。
また、農民同士の喧嘩など、大部分の犯罪に対する刑罰は罰金刑であり、個々の罰金が少額であっても固定収入として重要な収入源であったから、領主の収入を確保し、領内の治安を維持するために、裁判所(領主裁判所)が設けられるようになったんじゃ。
そして、収益徴集と裁判は密接で、専門化された裁判官が登場した後も、裁判官は所領管理人として用いられておったんじゃ。いわば税務署と裁判所が一緒になっていたわけじゃな。これらは、大領主である国王の直轄領でも同じじゃった。
何にせよ、領主の家臣が所領管理人・裁判官を務めておったんじゃ。今でこそお役人は公僕じゃが、当時のお役人は領主の使用人、召使いにすぎなかったので、そもそも公私の区別がないわけじゃから、公私混同は当たり前。つまり、領主のために徴収したお金の中から収入を得ておったわけじゃ。頑張れば頑張るほど自分の収入が増えるわけじゃから、取立ては苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極め、賄賂が横行したことは想像に難くない。また、訴訟が増えれば増えるほど領主と裁判官は儲かるので、裁判権は質入れされるほどの金のなる木だったそうじゃ。
西洋では、絶対君主制の時代に官僚制が確立するんじゃが、官僚が絶対君主の使用人である点は中世と全く同じ。マックス・ウェーバーは、これを絶対君主の家産(一家の財産)を管理する家産官僚制と呼んで、立憲君主制時代以降の法に従う依法官僚制と区別しておる。
ちなみに、支那(しな:China)やエジプトでは、紀元前から家産官僚制が採られておった。家産官僚制の歴史があまりにも長すぎて、公私混同を改めることができない病に陥っておるようじゃの。
生徒 もともと裁判所が領主の収入源確保の手段だったなんて、驚きました!
それにしても、公私混同する税務署兼裁判所なんて、想像しただけで恐ろしいですね!
老先生 全くその通りじゃの。そちは「清官三代(せいかんさんだい)という言葉を知っておるかの?
生徒 いいえ、存じません。
老先生 支那の官僚を、賄賂を受け取る「濁官(だくかん)」と賄賂を受け取らない清廉(せいれん)な「清官」に分けた上で、清官も地方役人を務めれば、合法的な付届けだけで子や孫の代まで遊んで暮らせるほどの蓄財ができるという意味じゃ。清朝中期の大臣であった和珅(わしん)は濁官だったそうで、皇帝から自殺を命じられたときに没収された財産は8億両。これは清の国家予算の10倍以上、豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を建設し、「朕(ちん)は国家なり」で有名なフランスの絶対君主ルイ14世(太陽王)の私有財産の40倍に相当したそうじゃ。
生徒 え〜ッ!!
老先生 一事が万事。政治家や公務員の公私混同を絶対に許してはならんのじゃ!
話を中世ヨーロッパに戻そう。以前にも説明したが(「議会今昔物語1」)、王といえども、他の領主の領内のことに介入することはできなかったんじゃが、実は、唯一の例外があったんじゃよ。それが国王裁判所じゃ。
すなわち、裁判が収益の源泉であるだけでなく、正義を自称する王の権威を示す場であり、王の権力を増大させる手段であることに気が付いて、長い時間をかけて国王裁判所の権限を増やそうとしたんじゃ。
まず、刑事訴訟についてみるとじゃな、死刑や体を痛めつける身体刑に相当する殺人罪のような重大な刑事事件(大事件)は、国王裁判所の権限であるとされたため(国王専管裁判事項)、王は国王直轄領以外の領地にも裁判を通じて介入することができたんじゃ。
もちろん、自由人成年男子全員から成る裁判集会も存続しておったんじゃが、時を経るにつれて、国王裁判所に付属する下級裁判所(人民裁判所)として軽微な小事件を担当するようになったんじゃ。
その結果、国王裁判所が刑罰権を独占することになり、キリスト教の影響で死刑と身体刑が忌避されるようになる。
世俗裁判所へのキリスト教の影響については、別の機会に話すとして、ここでは死刑に相当する犯罪について、少し見てみよう。死刑に値する犯罪の代表例が、殺人、放火、誘拐、窃盗であった。当時の家屋は、木造だったので、村全体に延焼するおそれがあるため、放火が重罪とされたわけじゃ。誘拐も、農村の貴重な働き手(労働力)を奪うからじゃな。面白いのは、強盗よりも窃盗が重罪だとされていたことじゃな。
生徒 どうして強盗よりも窃盗が重罪なんですか?
老先生 強盗の場合には、被害者には加害者に対して反撃するチャンスがあるが、こっそり盗んで反撃のチャンスを与えない窃盗は、卑怯である、著しく正義に反すると考えられたからじゃよ。
生徒 なるほど。いかにもゲルマン人らしい考え方ですね♪笑
老先生 そうじゃな。殺人も、同様の理由から、不意打ち・闇討ち・暗殺の方が、正々堂々の(?)殺しよりも著しく正義に反するとして重罪とされており、この考え方は現代でも維持されておるんじゃ。また、親殺し(尊属殺)は、命を奪うだけでなく、農業経験豊かな家長を失い、家経済自体を破壊するおそれがあるため、死刑相当の重罪とされ、現在でもフランスでは死刑にされておるんじゃよ。
生徒 ヘェ〜
老先生 さらに面白いのは、全ての刑罰について身請けが認められておることじゃ。すなわち、身分に応じて人命金(人の命の値段)が定められ、人命金に相当する贖罪金(しょくざいきん)を国王裁判所に支払えば、刑罰を免れたんじゃよ。
そして、この贖罪金のうち、3分の1が罰金として国王の収入になり、3分の2はフェーデ金(損害賠償金)として被害者の相続人等に帰属するんじゃ。そして、罰金の3分の1は、国王の使用人である裁判官の収入になるんじゃよ。
生徒 贖罪金がきっちり国王と裁判官の収入になっていますね。贖罪金は、一見すると人道的ですが、金持ちは贖罪金を支払って刑罰を免れ、貧乏人だけが実刑を受けるわけですから、これでは金持ちはやりたい放題ですね。。。苦笑
老先生 まったくじゃの〜。ただ、贖罪金のうち3分の2は被害者救済に充てられる点は、見習うべきかも知れんの。
次に、民事訴訟についてみるとじゃな、主従契約(封建契約)により、全ての土地所有権が王による恩賜又は確認に基づくものである以上、国王裁判所には、土地占有をめぐる争いと土地に付属する権利に関する争いを解決する裁判権があるはずじゃということで、これらの訴訟については、領主裁判所が下級裁判所として従来通りに裁判を行うが、現実には国王裁判所が控訴審たる高等裁判所として紛争を解決しておったんじゃ。そして、これは余談じゃが、13世紀末頃までには、裁判官と収益徴収官に専門知識を有する人物が配置されるようになった結果、詳細な記録が残され、先例に従って処理することが可能になり、これが慣習法の統一へと結びつくんじゃよ。
この結果、2つの重大な効果が生まれたんじゃよ。まず、直接の主従契約(封建契約)関係がない「臣下の臣下(陪臣:ばいしん)は臣下ではない」のじゃが、領主の家臣(陪臣)は、国王裁判所に訴えれば主君たる領主から保護してもらえることから、主君たる領主を飛び越えて自分を保護してくれる王への忠誠心が生まれるようになったんじゃ。これが民事訴訟の効果じゃな。
次に、これまで主従契約(封建契約)で緩やかに結合しているだけで相互に孤立していた領地が、数百年かけて、刑事訴訟と民事訴訟を通じて、王の権威の下にひとかたまりの領土と認識されるようになったんじゃ。
つまり、裁判所が、絶対君主制、つまり近代国家を形成する下地を作ったわけじゃな。
生徒 なるほど!先生が最初におっしゃった意味が分かりました♪
老先生 ふむ。なお、余談じゃが、王の財政と裁判を担う常設制度(現在の財務省と裁判所に相当する。)が設立されるとともに、王の収益徴収官と裁判官の仕事を総合的に調整し、命令を発する書記官庁が徐々に発展していくんじゃ。そのトップである書記官長(大法官)は、13世紀までほぼ司教が務めておったが、実務を担当するのは熟練の職人とも呼ぶべき書記であり、この書記たちの勤勉さと事務処理の正確さによって、様々な書式が明確化され、入念な記録が保存された結果、先例に従って処理することが可能になり、一貫性が生まれ予測可能性を確保できたわけじゃ。つまり、王がいちいち指図しなくても、それ自身で自律的に運営されるようになって、政府へと発展するわけじゃな。
これらの制度が絶対君主制時代の官僚制へと発展することについては、機会を改めて話すとしよう。
生徒 ありがとうございました♪
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