生徒 先日、おっしゃっていた裁判所へのキリスト教の影響について伺いたくて、参りました。
老先生 う〜ん。。。わしは信者ではないので、はっきり言ってキリスト教のことがよく分からんのじゃよ。。。トホホ
例えば、モーセがホレブの山(シナイ山)で羊を放牧していた時、神の声を聴いて「神の名」をたずねると、「わたしはあるものである」と答えたんじゃが(旧約聖書の出エジプト記三・一四)、この「あるもの」というヘブライ語が固有名詞「ヤーウェ」(YHWHという4つの子音で書く。5世紀までヘブライ語には母音がなかったからじゃ。わしには発音できん!苦笑)で、当時のユダヤ人は「ヤーウェ」の名を唱えるのが畏れ多いからと、アドナイ(主)と呼んでおったそうじゃ。
ところが、旧約聖書の創世記一・一の「はじめに神が天と地とを創造した」にいう「神」は、ヘブライ語の普通名詞エロヒムであり、エルの複数形なのだそうじゃ。どうして複数形の「エロヒム」を「神々」と訳さないのじゃろうか?唯一絶対の創造主「ヤーウェ」以外にも神々がおったのじゃろうか?主語が複数形ならば動詞も複数形にしなければならないのに、「創造した」という動詞が単数形なのは、どうしてじゃろうか?というような素朴な疑問が生じる。「エロヒム」は、父と子と精霊の三位一体を表すのだと説明する説もあるが、三位一体説はずっと後代に生まれた説じゃから、後知恵じゃろう。
また、180年ごろ、福音書が多すぎるため、内容を統一すべく司教エイレナイオスが編集して、現在の新約聖書に近いものを作ったそうじゃ。司教アタナシオスも似たような書物を編集して、393年のヒッポ公会議と397年のカルタゴ公会議で正式に認められて4つの福音書が正典とされた結果、その他の福音書は禁止され、燃やされたらしい。このように新約聖書の内容が統一されたはずなのに、例えば、イエスは、マタイ伝によれば、ダビデからソロモンへと流れる王家の出身であるとされる一方で、ルカ伝では家柄が低く、マルコ伝では貧しい大工の息子となっている。イエスが生まれたとき、マタイ伝では東方の三博士が訪ねたことになっているのに、ルカ伝では羊飼いになっている。どっちなんじゃ?という素朴な疑問が生じる。
さらに、イエスは、磔刑(たっけい)に処せられた後、「復活」したそうなんじゃが、グノーシス主義(初期キリスト教の一派で、異端とされた。)は霊が復活したんだと主張するのに対して、正統派(カトリック)は肉体が復活したと主張しておる。肉体が復活したんだとしたら、復活したイエスはどこへ行ったんじゃろうか?という素朴な疑問が生じる。
このような素朴な疑問を挙げだしたらきりがないわい。苦笑
生徒 先生は疑り深いのですね〜♪笑
老先生 わしは天邪鬼(あまのじゃく)じゃからの♪笑
このような素朴な疑問について、カトリックもプロテスタントもそれぞれきちんと説明をして信者さんはそれを信じておられるのじゃろうが、わしは信者ではないので、ここでは可能な限り教義には立ち入らずに、結果に着目して話を進めるとしよう。
生徒 はい。キリスト教って、どうしてこんなに普及したんでしょうか?
老先生 神道のように、特定の民族のみに信じられている宗教を民族宗教といい、仏教やイスラム教のように、民族の垣根を越えて広く信じられている宗教を世界宗教ということは、知っておろう。
ユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の一派にすぎなかったキリスト教は、割礼、安息日、食べ物等のユダヤ教の戒律(律法:トーラー)を守らなくてよいとして、信者になるためのハードルをぐんと下げることによって、ユダヤ人の民族宗教の枠を越えて、世界宗教化し、博愛精神に基づいて貧しき者たちに食事、被服、医療、教育などの扶助を行うことによって信者をどんどん拡大していったわけじゃ。
生徒 なるほど。でも、ローマ帝国は、キリスト教を迫害したんですよね?どうして迫害されたのでしょうか?
老先生 ローマ帝国は多神教だったので、他の宗教と同様に、当初はキリスト教に対しても寛容だったんじゃが、キリスト教自体は、唯一の神「ヤーウェ」以外の神を絶対に認めないので、他の宗教に対しては非寛容で攻撃的じゃった。ローマ皇帝も神の一人であったが、キリスト教徒はローマ皇帝を神として頑として認めないわけじゃ。しかも、貴族、平民、奴隷という身分制度を採っていたローマ帝国において、奴隷を同じ信者として平等に扱ったり、キリストの血と肉を象徴するブドウ酒とパンを信者が食べる儀式(聖餐式)が人肉食だと誤解されたりして、嫌悪され、社会秩序を乱す危険な得体の知れない連中だと思われて、迫害されたわけじゃ。64年のネロ帝、303年のディオクレティアヌス帝の迫害が有名じゃの。
生徒 テレビのクイズ番組でやってましたが、キリスト教徒は、迫害を避けるために、カタコンベ(地下の墓所)に隠れたんですよね♪
老先生 そうじゃな。ますます怪しい集団だと思われたかも知れんの。
ところが、303年のディオクレティアヌス帝の迫害からわずか10年でローマ帝国が手のひら返しをするんじゃよ。
313年、コンスタンティヌス帝とリキニウス帝が連名で発したとされるいわゆるミラノ勅令によって、キリスト教徒の信仰の自由と没収された教会財産の返還が認められて、キリスト教が公認されたんじゃ。ちなみに、コンスタンティヌス帝は、実の息子を処刑し、妻を釜茹でにした人物じゃ。
319年、コンスタンティヌス帝が聖職者の免税と軍役免除の法律を制定してキリスト教を優遇すると、教会は、皇帝に教義問題に立ち入る権限を与えたんじゃ。すなわち、325年、コンスタンティヌス帝は、第1回ニケーア(ニカイア)公会議を招集し、自ら議長を務めたんじゃよ。信者でない者にとっては、どうでもいいことじゃが、イエスは神そのものではなく父なる神に従属するとしてその神性を否定するアリウス派と、イエスは子であるが父と同じ(同質=ホモウシオス)神であるとしてその神性を認めるアタナシウス派との神学論争が公会議の中心議題だったんじゃ。結局、アタナシウス派を正統、アリウス派を異端と決し、アリウス派はローマ帝国領から追放されたんじゃ。なお、聖霊の神性をも認めて、父と子と聖霊は三位一体であるという三位一体説が唱えられ、381年、テオドシウス帝が招集したコンスタンチノープル公会議で正統な教義であることに決まったんじゃ。
そして、355年、司教は世俗裁判所で裁かれることを生涯免除されたんじゃよ。ものすごい特権じゃ!!
361年〜363年の背教者ユリアヌス帝によるキリスト教優遇策の見直しという反動もあったが、380年、テオドシウス帝は、「父と子と聖霊を、同等の権威をもつ三位一体と考え、唯一の神として信奉すべし。一、この命令に従う者にはカトリック教徒の名を授ける。だが、これに従わない者は理性を失った狂人と見なされる。彼らの教義は異教の烙印を押され、集会所は教会の名を与えられず、まず初めに天罰が下り、次に天の裁きに匹敵するものとして国民が選んだ刑罰を受けるであろう。」という勅令を出した結果、キリスト教会に逆らうことは違法になったんじゃ。
そして、392年、テオドシウス帝により、キリスト教以外の宗教を信仰することが犯罪行為として禁止され、キリスト教が唯一の宗教ということになって、国教化されたわけじゃ。その結果、土着の宗教の神殿は、キリスト教徒によって略奪され、徹底的に破壊された。例えば、カトリックの総本山があるバチカンの丘には、ミトラを祀る洞穴神殿があったんじゃ。
435年、帝国内の異教徒を死刑に処する法律ができ、ついにキリスト教は、ローマ帝国の力を借りて、他の宗教を力でねじ伏せることに完全に成功したわけじゃよ。
生徒 いじめられたからこそ、自分は絶対にいじめないようにしようと思うはずなのに。。。博愛を説きながら他の宗教を徹底的に弾圧し、古来から続く歴史的文化遺産を破壊するなんて。。。
老先生 そうじゃな。自分が常に正しくて、目的のためには手段を選ばないという宗教の怖さを端的に表しておるの。その後の十字軍や異端審問等もキリスト教の暗黒史じゃ。
生徒 それにしても、どうしてこのようにローマ帝国の宗教政策が急激に変化したのでしょうか?
老先生 エドワード・ギボンが詳細に分析しておるが(中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史3』(ちくま学芸文庫)225頁以下)、よ〜分からん!神の御業(みわざ)だと信じれば楽なんじゃろうがの〜
ただ、結果から推測するに、キリスト教の合法化を図るために、皇帝をはじめとする権力者を信者に取り込んだことは間違いなく、これは極めて効果的な戦術だったと言えるの。また、キリスト教に共感又は改宗した皇帝としては、いくら法を定めても、これを守る倫理感なくしては絵に描いた餅じゃから、世界宗教であるキリスト教によって倫理感を高め、宗教や風俗習慣を異にする多民族国家であるローマ帝国の頽廃した社会の健全化・安定化を図ろうと考えたであろうことは想像に難くない。特に、375年、フン族に圧迫されてゲルマン民族が大移動を始め、帝国内が混乱の坩堝(るつぼ)と化したことから、キリスト教によって帝国内を統一して国難に立ち向かおうと考えたとしても不思議はない(結局、478年、西ローマ帝国は滅亡するのじゃが。)。さらに、例えば、もともと聖人ではなかったのに、イエスの母マリアを聖母として認めることにより、女神を信仰する土着の宗教にすり寄ってイメージアップを図ったことも、キリスト教への嫌悪感を払拭する上で大きかったじゃろう。
なんにせよ、裁判制度を見ている我々にとって大事なことは、ローマ帝国内に、キリスト教会といういわば治外法権の別の国ができたということじゃ!!
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