Fleeing to the City of Refuge (Numbers 35:11-28). From Charles Foster, The Story of the Bible, 1884.
https://en.wikipedia.org/wiki/Cities_of_Refuge
「のがれの町(City of Refuge)」。まるでハードボイルドの小説や映画のタイトルのようだが、決してそうではない。聖書に出てくる町の名前だ。
信者さんを除き、通常、分厚い聖書を通読しないのではなかろうか。私は、単なる興味本位で読み始めたが、途中で何度も挫折した。そのため、ひょっとしたら「のがれの町」をご存知ない方もいらっしゃるかもしれないと思い、少しでも法に関心を持っていただくために、ご紹介しようと考えた次第だ。
要約する方が簡単なのだが、聖書をそのまま引用した方が古代ユダヤ社会の雰囲気も味わうことができると思うので、長文をご容赦願いたい。
以下、引用は、『口語 聖書』(1955年日本聖書協会)による。
古代オリエントは、「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典の影響下にあり、聖書も同じ考え方を採っている。
例えば、旧約聖書出エジプト記第21章には、次のように定められている。
24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
また、旧約聖書申命記第19章にも、次のように定められている。
21 あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。
つまり、聖書は、同害報復すべきことを掟として定め、古代ユダヤ人は、神が定めたこの掟に従って復讐していたわけだ。
現代から見ると、復讐なんて野蛮だと思われるだろうが、当時としては、極めて合理的なルールだった。やられたらやり返すというのは、自然な感情の発露であって、復讐によって、被害者感情がある程度収まる。また、泣き寝入りしているようでは、厳しい世界で生きていけない。当時は、粗末な家一つ建てるにしても、部族の協力が必要だから、部族は運命共同体であって、部族の一人が別の部族に殺されたら、部族総出で復讐しなければ、その部族は滅亡の憂き目に遭うからだ。
復讐されるからこそ、やるのを止めようと自制心が働き、社会秩序が維持されるという意味で、復讐は、いわば法の役目を果たしていたわけだ。しかも、復讐は、同害報復に限られ、倍返しすることを禁じているので、人道的だったとすら言える。
しかし、不注意(過失)によって人を殺してしまった場合であっても、同害報復である以上、被害者側は加害者を殺してよいのだが、加害者としては、「わざと殺したんじゃないんだ!殺さないでくれ!」と助命嘆願したくなるのも人情だ。
わざと(故意に)人を殺した場合と不注意(過失)によって人を殺してしまった場合とを区別して取り扱うのが公正だと考えられたのだろう。神は、モーセに対して、次のように命じている(民数記第35章)。
9 主はモーセに言われた、
10 「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、
11 あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。
12 これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。
13 あなたがたが与える町々のうち、六つをのがれの町としなければならない。
14 すなわちヨルダンのかなたで三つの町を与え、カナンの地で三つの町を与えて、のがれの町としなければならない。
15 これらの六つの町は、イスラエルの人々と、他国の人および寄留者のために、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。
ここで注目すべきは、「のがれの町」が「イスラエルの人々と、他国の人および寄留者のため」だとされている点だ。ユダヤ教徒だけでなく、異教徒であっても、不注意(過失)によって人を殺してしまった場合には、「のがれの町」に逃れることが認められていたという意味で、コスモポリタンで人道的だったと言えるだろう。また、近くに「のがれの町」がなければ、逃げ込むことができないので、6つも「のがれの町」を設置せよと命じている点も、合理的だ。
旧約聖書ヨシュア記第20章も、ほぼ同様のことを定めて、より具体化している。
1 そこで主はヨシュアに言われた、
2 「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、
3 あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。
4 その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。
5 たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。
6 その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。
7 そこで、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンを、これがために選び分かち、
8 またヨルダンの向こう側、エリコの東の方では、ルベンの部族のうちから、高原の荒野にあるベゼル、ガドの部族のうちから、ギレアデのラモテ、マナセの部族のうちから、バシャンのゴランを選び定めた。
9 これらは、イスラエルのすべての人々、およびそのうちに寄留する他国人のために設けられた町々であって、すべて、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせ、会衆の前に立たないうちに、あだを討つ者の手にかかって死ぬことのないようにするためである。
問題は、どのようにして殺人罪(故意犯)か過失致死罪(過失犯)かを判断するのかだ。神は、この点も抜かりない。
まず、旧約聖書申命記第19章には、次のように定められている。
4 人を殺した者がそこにのがれて、命を全うすべき場合は次のとおりである。すなわち以前から憎むこともないのに、知らないでその隣人を殺した場合、
5 たとえば人が木を切ろうとして、隣人と一緒に林に入り、手におのを取って、木を切り倒そうと撃ちおろすとき、その頭が柄から抜け、隣人にあたって、死なせたような場合がそれである。そういう人はこれらの町の一つにのがれて、命を全うすることができる。
6 そうしなければ、復讐する者が怒って、その殺した者を追いかけ、道が長いために、ついに追いついて殺すであろう。しかし、その人は以前から彼を憎んでいた者でないから、殺される理由はない。
7 それでわたしはあなたに命じて『三つの町をあなたのために指定しなければならない』と言ったのである。
次に、旧約聖書民数記第35章には、次のように定められている。
16 もし人が鉄の器で、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。
17 またもし人を殺せるほどの石を取って、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。
18 あるいは人を殺せるほどの木の器を取って、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。
19 血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる。
20 またもし恨みのために人を突き、あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ、
21 あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は、その故殺人に出会うとき殺すことができる。
22 しかし、もし恨みもないのに思わず人を突き、または、なにごころなく人に物を投げつけ、
23 あるいは人のいるのも見ずに、人を殺せるほどの石を投げつけて死なせた場合、その人がその敵でもなく、また害を加えようとしたのでもない時は、
24 会衆はこれらのおきてによって、その人を殺した者と、血の復讐をする者との間をさばかなければならない。
25 すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して、逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで、そこにいなければならない。
26 しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、
27 血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。
28 彼は大祭司の死ぬまで、そののがれの町におるべきものだからである。大祭司の死んだ後は、人を殺した者は自分の所有の地にかえることができる。
29 これらのことはすべてあなたがたの住む所で、代々あなたがたのためのおきての定めとしなければならない。
30 人を殺した者、すなわち故殺人はすべて証人の証言にしたがって殺されなければならない。しかし、だれもただひとりの証言によって殺されることはない。
31 あなたがたは死に当る罪を犯した故殺人の命のあがないしろを取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。
32 また、のがれの町にのがれた者のために、あがないしろを取って大祭司の死ぬ前に彼を自分の地に帰り住まわせてはならない。
具体例を用いて、殺人罪(故意犯)と過失致死罪(過失犯)を分かりやすく区別しており、また、たった一人の証言で殺人罪(故意犯)としてはならないとして、裁判の公正さをも確保しようとしている点は、注目に値する。
ただ、過失致死罪を犯して「のがれの町」に逃げ込んだ場合に、裁判(会衆のさばき)によって「のがれの町」に留め置かれるというのは分からなくもないが、どうして大司祭が死ぬまでは、故郷に帰ることができないのかがよく分からない。
キリスト教風に解釈すれば、不注意とはいえ、人を殺めてしまったことは罪であり、この罪が大司祭の死によって贖(あがな)われて、はじめて自由の身になるのだと考えることができるかも知れない。
「血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。」とされていることから、少なくとも「のがれの町」の外には、復讐せんとする被害者側が待ち構えているケースがあったことは確かなようだから、のがれた者を保護するための方便として、大司祭が死ぬまでは故郷に帰れぬと諦めさせたのかも知れない。
いずれにせよ、帰郷できぬのは辛かったのだろう。「のがれの町にのがれた者のために、あがないしろを取って大祭司の死ぬ前に彼を自分の地に帰り住まわせてはならない。」と念押ししていることに鑑みると、少なくとも望郷の念に駆られて「あがないしろ」(贖罪金)を払って帰郷しようと試みる人が多かったことが分かる。
「のがれの町」について、どのようなご感想を持たれただろうか?
江戸時代の縁切寺・駆け込み寺を連想された方もいらっしゃるだろうし、現代のDVシェルターを連想された方もいらっしゃるだろう。
信者さんに叱られるだろうが、ど素人の勝手な妄想だと思って、ご容赦いただきたい。古代ユダヤ社会においては、神の掟である復讐によって社会秩序を維持していたが、過度な復讐が行われたり、過失致死罪の処遇を巡って不公平感が高まるなど、歴史を経るにつれて不都合な点が徐々に明らかになったが、復讐という神の掟自体を廃止することができないため、問題意識が高い良心的なユダヤ人たちが自発的に「のがれの町」を作るようになり、それが聖書編纂時に取り入れられたのではあるまいか。
しかし、現代の法は、神が与え給もうた掟ではないから、変更可能だ。品質管理においては、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)という4段階を繰り返すPDCAサイクルが用いられているそうだが、これと同様に、法も進化を繰り返すのだ。
例えば、我が国においても、江戸時代以前に敵討(かたきう)ち・仇討(あだう)ちが認められていたが、現在では、正当防衛(刑法第36条)に該当する場合を除き、復讐が禁止されている(自力救済の禁止)。腕力が強ければ復讐できるが、腕力が弱ければ復讐できず、仮に復讐しようとしても返り討ちにあって、不公平であるし、また、復讐を認めると、治安が悪くなるからだ。
さらに、過失犯処罰規定がない限り、原則として、過失犯は処罰されないことになっている(刑法第38条第1項)。過失によって人を殺めた場合には、過失致死罪として処罰する規定があるが、故意犯である殺人罪(刑法第199条)に比べて、刑罰が非常に軽くなっている(刑法第210条)。
神ならぬ生身の人間が作った法は、そもそも完璧ではない。だからこそ問題意識を持って課題を発見し、法を制定又は改廃していかねばならない。そのための前提知識が法務知識だ。
自治体職員さんには、住民の福祉(幸せ)の増進に貢献できるよう法務知識を身に付け、法務能力の向上に努めていただきたいと願って研修を行なっている。
cf.刑法(明治四十年法律第四十五号)
(正当防衛)
第三十六条 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
(故意)
第三十八条 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。
(殺人)
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
(過失致死)
第二百十条 過失により人を死亡させた者は、五十万円以下の罰金に処する。
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