生徒 先生、こんにちは!
老先生 こんにちは。久しぶりじゃの〜
生徒 武漢ウイルスのせいで、ずっと自宅学習でしたから。
老先生 マスコミも政治家もいつまでもバカ騒ぎしよって、全く困ったもんじゃ。して、何か質問かの?
生徒 いや〜特に質問というわけではないんですけど、憲法の教科書には、「裁判の公正を確保するためには、その重要な部分が公開される必要がある」(芦部信喜著『憲法』(岩波書店)270頁)から、憲法第82条が裁判の公開を定めているとあるのですが、裁判官も検察官も弁護士も、難関の司法試験に合格した専門家だから、非公開であっても、法曹に任せておけば裁判の公正を確保できるのではないかなぁ〜とふと思ったものですから。
cf.日本国憲法(昭和二十一年憲法)
第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
○2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
老先生 いやいや、逆じゃ。憲法は、法曹なんて信用できないと考えたからこそ、裁判を公開することにしているんじゃよ。最高裁自身も、「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとするところにある」と述べているぐらいじゃ(最大判平元.3.8民集43巻2号89頁)。
生徒 ということは、「両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。」と定めている憲法57条第1項も、国会議員への不信感を前提とした規定ということでしょうか。
老先生 その通りじゃ。これらに対して、内閣をはじめとする国の行政機関については、憲法上、公開原則が定められておらんが、それは、行政が秘匿性の高い国家機密や個人情報等を取り扱うため、公開原則に馴染まないからにすぎず、大臣や官僚たちが信用できると憲法が考えているわけではない。
そこで、国民主権から、国の行政機関が保有する情報は、いわば国民の共有財産だから、国民はこれを知る権利があるのだという理屈をこねて、情報公開法という法律によって情報公開制度が設けられているわけじゃな。
生徒 なるほど。憲法は、人間不信を基底にしているのですね。
老先生 一応そう言えるの。そもそも三権分立制自体が人間不信を前提とした制度じゃからの。このように憲法自身が性悪説に立脚しているのに、性善説に立脚しているかの如き法令が多いのは如何なものかと思うがの。
他方で、憲法前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と幼稚で能天気な戯言を述べておる。国会議員などの自国民は信用できないが、外国人は信用できるなんて、なんと自虐的で浅薄な人間観・世界観に立脚している憲法だろうかと呆れるわい。
生徒 確かに、おっしゃる通り、自国民は信用できないが、外国人は信用できるなんて、一貫性に欠けますね。
老先生 うむ。憲法学者が大好きな平和主義・国際協調主義は、自国民差別主義に立脚しておるんじゃ。誰もこんなことは言っておらんが、自国民差別主義こそがこの憲法の隠れた原理の一つなんじゃよ。
さて、裁判の公開の話に戻すとしよう。裁判の起源については、万人の万人に対する闘争が行われたと仮定して、理性と意思の力によって仲裁という形で紛争を解決するようになり、この仲裁を制度化したものが裁判だと考える学者もおる。
しかし、万人の万人に対する闘争があったという仮定自体が間違っていることは、最近のDNA鑑定からも明らかになっておる。我々ホモ・サピエンスが住んでいた洞窟に残された大量の人骨をDNA鑑定した結果、多数の家族が一つの社会をつくって共同生活を営んでいたことが科学的に証明されているからじゃ。
これは余談じゃが、同時期にホモ・サピエンスよりも屈強なネアンデルタール人もおったのじゃが、ネアンデルタール人は、家族ごとに遠く点在して暮らしておったことも、DNA鑑定から明らかになっておる。
ホモ・サピエンスの場合、社会を構成して暮らしているので、頭の良い人が新しい武器等の道具を発明すると、あっという間に共同生活している他の家族もその道具を持てるようになるのに対して、ネアンデルタール人の場合には、家族単位で遠く点在しておったので、情報伝達が遅くて、他の家族が新しい道具を持つことが困難じゃった。そのために、ネアンデルタール人は、生存競争に負けたのではないかと言われておる。
もっとも、ネアンデルタール人は、もともと人口が少なくて環境の変化等によって容易に消滅する運命にあったという説もあるし、また、我々ホモ・サピエンスのゲノムの一部にネアンデルタール人の遺伝子が残っていることも明らかになっているので、チンパンジーとゴリラが共存しているように、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人も共存していたとも考えられるがの。
生徒 へぇ〜、「人間はその本性においてポリス的動物である」というアリストテレスの言葉が、実証されたのですね。
では、仲裁が裁判の起源ではないとしたら、裁判の起源は何なのですか?
老先生 以前、古代ゲルマン人の復讐が裁判の起源だと話したことがあるんじゃが、覚えておるかの?
生命・身体・財産・名誉が傷つけられた場合には、被害者は加害者に対して復讐してよいとされており、被害者の属する氏族はこれを助けなければならないんじゃ。個人に対する攻撃は、その氏族に対する攻撃であると考えられたので、被害者が死亡した場合には、被害者の属する氏族が代わりに加害者に対して復讐することが認められておった。
すなわち、現行犯の場合には、被害者は、叫び声を上げて、近隣の氏族が剣を持って駆けつけ、加害者を殺して、民会で、正当防衛であることを被害者が仲間とともに宣誓すると、加害者の属する氏族は報復することができなくなるわけじゃ。
ところが、このような現行犯の場合と異なり、犯行が一夜明けて発覚した場合には、被害者の属する氏族と、加害者の属する氏族は自動的に敵対関係になり、氏族の名誉を守るために私闘(私戦・自力救済。フェーデFehde:原意は敵対)が行われたんじゃ。要するに、やられたらやり返す氏族間の復讐じゃな。
その後、血で血を洗う私闘は社会秩序を乱し、社会の結束を弱めることから、これを少なくするために、民会において刑事裁判(裁判集会)が行われるようになり、刑罰が誕生したわけじゃ。
ちなみに、この私闘は中世末まで行われており、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」もこの流れを汲んでおる。
生徒 いけね!以前、教えていただきましたね。苦笑
老先生 古代ゲルマン民族においては、このような自力救済(復讐)が認められていたのじゃが、無制限に自力救済が認められていたわけではなく、チュービンゲン大学教授でローマ法・教会法・近代私法がご専門のクヌート・W・ネル先生の言葉を借りれば、「儀式化された自力救済」のみが認められていたのじゃ。
すなわち、家に強盗に入られた被害者は、いきなり加害者を殺してはならず、叫び声を上げて氏族を呼び集めて、衆人環視の下で、自力救済として加害者を殺さなければならんのじゃ。クヌート・W・ネル先生は、このように衆人環視の下に置くことを儀式と呼んでおるんじゃよ。自力救済を衆人環視の下に置くことによって、安易に自力救済が行われないように抑制するとともに、自力救済が正当であることを確証させるわけじゃな。
例えば、知人を殺そうと思って、この知人を自分の家に招いて、これを騙し討ちにしたのに、この知人が家に押し入ってきたから殺したのだという嘘の言い訳をできないようにするために、いきなり加害者を殺してはならないとした上で、叫び声を上げて氏族を呼び集め、衆人環視の下に置いて、疑念があれば、加害者に弁明の機会を与えて、本当に押し込み強盗をしたかどうかを確かめてから復讐させたのじゃ。
さらに、自力救済を衆人環視の下に置くことは、加害者の属する氏族による復讐の連鎖を断つことにもつながるんじゃよ。
すなわち、自力救済が正当であるとして認めた衆人環視者たる被害者の属する氏族は、いわば自力救済の共謀共同正犯であるから、加害者の属する氏族が加害者の仇討ちをしようとすれば、被害者の属する氏族をも敵に回すことになるので、加害者の仇討ちを思いとどまらせることにつながるんじゃ。
この儀式化された自力救済は、その場限りの臨時的なものにすぎんが、これが後の時代に制度化されると裁判になるんじゃ。その意味で、裁判の起源は、儀式化された自力救済(復讐)であると言えるわけじゃよ。
生徒 なるほど!裁判というのは、もともと衆人環視(裁判の公開)と密接不可分なものとして発展したものだったのですね!
老先生 その通りじゃ。
生徒 裁判の起源である儀式化された自力救済には、自力救済を衆人環視下に置くことによって、自力救済を抑制するとともに、自力救済を正当化させ、復讐の連鎖を断ち切る機能があったとしたら、裁判の公開にも、不公正な裁判を抑制するとともに、裁判を正当化させ、裁判に従わせるという機能があると言えそうですね。
老先生 うむ。飲み込みが早いの。
クヌート・W・ネル先生は、rechtレヒトの二重性(権利・法)が裁判の出発点から存在したともおっしゃっている。
すなわち、人や物に対する自力救済は、その対象に対する権利(主観的なrecht)に基づいていると同時に、自力救済のための儀式は、法(客観的なrecht)が行われていることを表しているというわけじゃ。
生徒 なるほど。いっけね!数的処理の授業が始まっちゃう!先生、また遊びにきますね!
老先生 うむ。こんな話は、試験に出ないので、受験勉強をしっかりやりなさい。
<追記>
法曹が信用できないという話に関連して「法匪」について述べようと思ったが、「法匪」という言葉を聞いて「放屁」をイメージするぐらいの認知度だと説明に時間がかかって話の腰を折るため、「法匪」を検索したところ、たまたま労働法がご専門の花見忠氏の『法匪が操る法痴国「日本」』という長文のエッセイを見付けた。花見氏ほどのご高名な先生なればこそ言える辛辣なご発言が小気味良い。PDFをクリックすると全文を読める。
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