以前、金子堅太郎先生の半生について述べ、金子堅太郎講演『帝国憲法制定の精神』をご紹介した。
『帝国憲法制定の精神』を読んだ教え子から、「唯憲法発布以来、我が国の歴史も考へず、国体をも弁えず、徒に外国の憲法の理論のみを知って、之に依って我が日本の憲法をも同じ様に解釈しようとする者があることは、唯単に帝国憲法の精神を知らないばかりではなく、更に帝国憲法の精神を誤り、更に国民をも迷わすものであり、之が今日の憲法政治の運用を誤らすものである」という金子先生の批判は、美濃部達吉教授の天皇機関説に向けられたものですか、という質問があった。
その通りだと私も思う。
美濃部達吉教授は、ドイツのイェリネックの国家法人説を前提に、大日本帝国憲法において、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、大臣の輔弼(ほひつ)を受けながら、統治権を行使するという天皇機関説を主張した。
これに噛み付いたのが国家社会主義者の上杉慎吉教授だ(戦前の右翼は、ナチスやファシストと同じ国家社会主義者だ。)。浜口首相がロンドン海軍軍縮条約を締結したのは統帥権の干犯だと批判されたが、この浜口首相の背中を押したのが他ならぬ美濃部教授だったから、美濃部教授が目障りだったのだろう。
その後の経緯については、憲法の教科書に必ず触れられているし、この事件を取り扱った本が数多く出版されているので、そちらへ譲る。
私が法的に面白いと思うのは、イギリスではこのような議論が一切行われていないことだ。イギリスでは、このような問題自体が起こり得ないからだ。
イギリスのキング(現在は、女王だが、ここではキングという。)には、①自然人としての国王と、②制度としての国王という二つの意味がある。①をThe King、②をThe Crownと区別することがある。crownは、王冠という意味だが、定冠詞を付けて大文字にすると、統治権者である国王を意味する。
このThe Crown制度としての国王は、イギリス以外の国におけるthe state国家に相当する概念だ。すなわち、イギリス以外の国では、例えば、the United States of Americaアメリカ合衆国のように、統治権者をthe state国家と呼ぶが、フランスのルイ14世が「朕は国家なり」と述べたように、イギリス国王そのものが国家だから、イギリスではthe state国家という概念がないのだ。そのため、統治権が国家にあるとか、国民に発するなどという法思想がそもそも成立する余地がなく、統治権が国王にあることは、何人も疑い得ないイギリス憲法の根本原理だと考えられている。
具体例を挙げ出したらキリがないが、イギリスでは、「国会における国王」が立法を行う。財政法案の可決は、「陛下の忠良なる臣民が喜んで陛下に所要の国費を奉納する」という形式で行われる。野党ですら「陛下の忠良なる反対党」だ。
政府は、「陛下の政府」であり、国王が「唯一の執政官」だから、大臣以下の官吏は、全て国王から行政事務を委任されているにすぎない。
裁判も、「裁判所における国王」により行われ、国王は「正義の淵源(えんげん)」なので、「判決は、判事の口を借りて言い渡される国王の声である」とされている。
軍隊も「国王の陸軍」・「国王の海軍」・「国王の空軍」だ。イギリス国籍を有する人は、国王に忠誠を誓う「陛下の臣民」であり、イギリスの領土は、全て「陛下の領土」だ。
官庁と私人の契約は、国王と私人の契約であり、官庁側が契約に違反した場合には、国王の有り難き思し召しにすがって救済を嘆願する「権利請願」という形で救済を求める。
なぜこのようなことが現在も行われているのか不思議に思われるかも知れないが、イギリス人がこのような長年のしきたり(慣習)を法だと確信しているからだ。
イギリスの公的な制度の多くは、ノルマン征服(1066年)以降の産物なのだが、国王制と地方行政制だけは、ノルマン征服以前のアングロ・サクソン期に遡(さかのぼ)ることができる。イギリス王室は、王朝がたびたび変わり、17世紀の一時期共和制になったとはいえ、5世紀からイングランド南部のウェセックス王国を支配したHouse of Wessexウェセックス家(古英語でCerdicingasセルディック家とも言う。)から血統を引いているところに正統性が求められている。
この点、日本も似ている。天照大神の天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)に基づき、2600年以上にわたって、万世一系の天皇が日本を統治し続けているのであり、これが可能なのは、日本人がこの長年のしきたり(慣習)を法だと確信しているからだ。
明治天皇の思し召しにより、このような国柄(国体)を明文化したものが大日本帝国憲法だから、イギリスと同様に、統治権が天皇にあることは自明の理であり、統治権が国家にあるかどうかというような議論が起きる余地がないのだ。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第4条)とはっきりと明記されているから、尚更だ。
ハーバード大学ロースクールで英米法を学ばれた金子先生は、イギリス憲法にも精通しておられるので、国柄が全く異なるのに、ドイツの国家法人説をそのまま日本に持って来て、条文の文言を無視して無理矢理日本に当てはめ、法人である国家に統治権があり、天皇は最高機関にすぎないと主張した美濃部教授に我慢ならなかったのだろう。
なお、金子先生は、上杉教授のような国家社会主義者ではなく、イギリス流の保守主義者だ。
大日本帝国憲法は、ドイツの憲法を参考にして作られたとまことしやかに喧伝されているが、これは美濃部教授の天皇機関説を擁護するための真っ赤な嘘であって、イギリス憲法とその影響を受けたベルギー憲法を形の上で参考にしていることは、条文を読めば分かる。
邦題『女王陛下の007』のテーマのリンクを貼ってみたけど、好きな曲ではないので、代わりにエルガーの威風堂々を♪
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