下記の記事によると、「学校や自治体の予算の使い道を子どもたちが決める取り組みが広がっている。裁量を与えることで、学校や社会の運営に参画する意識を育むのが狙いだ。選挙権年齢が引き下げられ、子どもの時期から主権者意識を育てる必要性が高まっていることが背景にある。」
日本労働組合総連合会(連合)は、「学校現場で 主権者意識を高めるために」主権者教育を推奨している。総務省の「常時啓発事業のあり方等研究会」もこれを後押ししている。
手法自体は、後述する住民自治教育にも使えるけれども、目的がダメだ。この主権者意識を育てることは、政治を決定する権利が人民にあるという人民主権論を前提とした左翼教育だからだ。
手を替え品を替え、左翼思想を洗脳しようとする変質者の如き執念深さには驚かされる。
people「人民」は、nation「国民」と似て非なるものだ。「国民」から支配者層を除いた被支配者層を「人民」と呼ぶ。
フランス革命は、人民主権の名の下に、ルイ十六世などの支配者層をギロチンにかけて大量虐殺した。同様に、ロシア革命も、王侯貴族や資本家を大量虐殺した。
「人民」は、テロリズム(英語terrorism)・テロル(ドイツ語terror)の主体であって、人民主権は、テロリストによる恐怖政治を正当化する根拠なのだ(これに言及しない憲法学者は、信用に値しない。)。
そのため、テロリストは、好んで「◯◯人民解放戦線」というような「人民」を冠した組織名や国名を名乗るのだ。
確かに、日本国憲法は、国民主権を採っているが、ここにいう「国民」は、過去・現在・未来の日本国民を包摂する抽象的存在を意味する。日本国憲法は、日本国が未来永劫存続することを前提としているからだ。つまり、個々具体的な日本国民が主権者ではないのだ。
そして、前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」と明記されているように、この抽象的な「国民」が国民の代表者(広義の政府)との間に信託契約を締結して、国政を委ねるという代表民主政(広義)を採っているのであって、人民が政治を決定する権利を有するわけではないのだ。
この信託による代表民主政は、英米法に由来する。フランス由来の人民主権論が入り込む余地など一切ない。ハミルトン/ジェイ/マディソン『ザ・フェデラリスト』(福村出版。岩波文庫版はダメ。)を読めば、一目瞭然なのだが、民意が直接国政に反映することにより衆愚政治に陥ることを回避するための人類の叡智なのだ。
主権者教育は、批判能力・理解力に乏しい児童・生徒に対して、一人一人の国民にあたかも政治を決定する権利があるかのような誤解を与えて、「政治に不平不満があれば、声を上げろ!、立ち上がって行動せよ!主権者はキミだ!」と煽(あお)って、人民蜂起による革命の下地づくり・予行演習を意図するものであって、児童・生徒を革命の先兵(テロリスト)として養成することが真の狙いだ。
公立学校は、人民主権論に立脚した主権者意識を育てる狂った洗脳教育(テロリストの養成)ではなく、住民自治教育をすべきなのだ。
ジェームズ・ブライス(1838年~1922年)は、「地方自治は民主政治の最良の学校、その成功の最良の保証人なり」と述べているように、住民自治は、住民に最も身近な地方自治への参加を通じて住民が民主政の在り方を学ぶ絶好の機会であり、代表民主政を補完するものなのだ。
公立学校では住民自治教育を通じて、地元市区町村の行政に対する関心を高め、郷土に誇りを抱かせることが有用だ。
そうすれば、国政選挙に比べて低い地方選挙の投票率も高くなろう。
ところが、惜しむらくは「住民自治教育」という言葉すらなく(私の造語)、どこの自治体も実施していない。愚かにも主権者教育の真の狙いを知ってか知らずかこれを実施している。
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