西洋人を啓蒙すべき時代

 以前述べたように、学生時代から、古典を読んでいる。

 しかし、メソポタミア文明は、日本に直接関係がないため、世界最古の文学作品である『ギルガメッシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫)を後回しにしていた。

 ずっと気にはなっていたのだが、先日、古本屋へ行ったら、たまたま綺麗な状態のこの本が百円で売られていたので、つい買ってしまった。

 昨日、某市役所へ向かう通勤電車の中で読んでみた。訳者が予めあらすじを説明してくれているので、読みやすく、すぐに読了した。お蔭で疲れ目になって、研修中、目がショボショボして、テキストの文字が見えにくくなった。。。


 さて、『ギルガメッシュ叙事詩』には、旧約聖書の「ノアの箱舟」よりも古く、これと大変よく似た物語が登場するので、楔形文字で書かれた石板が解読された時には、一神教の人々にとってさぞや衝撃的な出来事だったろうことは、想像に難くない。


 しかし、一神教徒ではない私にとって興味深ったのは、フンババが守る杉森に主人公ギルガメッシュ王とエンキドゥが攻め入って、フンババを殺し、杉を切り倒して、母国へ運んだ話だ。

 世界最古の森林(自然)破壊の話だからだ。


 神エンリルにより杉森の番人に任命されたフンババは、「その叫び声は洪水、その口は火、その息は死」という風に、恐ろしい怪物の如く描かれている。

 私の勝手な想像だが、フンババは、シュメール人であるギルガメッシュとは異なる民族の英雄で、森を大切に守って生活し、この森の杉を奪おうとする者を撃退し続けてきたので、他の民族から恐れられていたのではないかと思われる。


 この本には、「杉」と表記されているのだが、「レバノン杉」のことだ。レバノン杉は、神殿・王宮・船の建築に用いられたり、香り高い精油が防虫・防腐剤として用いられたりするなど、古代においては大変貴重な木材だったため、ギルガメッシュは、これを奪おうと攻め込んだわけだ。

 しかも、森林の破壊と略奪が英雄的行為として讃えられており、人間による自然支配・自然破壊の上に築かれたメソポタミア文明の象徴的行為とも言える。

 以前述べたトロイア戦争と全く同じ構図だ。

 このレバノン杉は、かつては、レバノン、シリア、トルコなどの中東山岳地帯に広く分布していたが、古代ギリシャと同様に、メソポタミアでも、森の再生能力を超える伐採が行われ、植林をしなかったために、禿げ山だらけとなって、文明は衰亡した。


 最近になって、国際的支援を受けて、レバノン国内でレバノン杉の植林が漸(ようや)く行われるようになり、Shouf Biosphere Reserveシューフ・バイオスフィア保護区、Cedars of Godセダーズ・オブ・ゴッド保護区(世界遺産)でレバノン杉が育ち始めている。


 ところで、「レバノン杉」は、「ヒマラヤ杉」と同様に、和名では「杉」と表記されるのだが、いずれも学術的には「マツ科」に属する。ぱっと見は杉っぽいけれども、大きな松ぼっくりができるから、これを見れば、明らかに「松」だ。

 「松」なのに、どうして「杉」と表記されるのか。


 聖書には、何十回も「レバノン杉」が登場する。聖書を翻訳する際に、「レバノン杉」と訳してしまって、これが定着したため、「松」なのに「レバノン杉」と呼ばれるようになったのではないかと思われる。


 すなわち、「レバノン杉」は、Lebanon Cedarの翻訳語であり、「ヒマラヤ杉」は、Himalayan Cedarの翻訳語だ。逆に、日本の「杉」は、Japanese Cedarと英訳されている。

 Cedarシダーは、「針葉樹」という意味だ。我々日本人からすると、松と杉は、全く異なる木なのだが、英語では、松と杉を区別せずに、どちらも「針葉樹」と呼んでいるわけだ。

 Cedarにぴったりの日本語がなく、形状が松よりも杉に似ているため、「杉」と翻訳してしまったのだろう。


 これは、言葉と認識のあり方には深い関連があ るという言語相対説(サピア=ウォーフの仮説)で説明できる。


 例えば、日本語では、調理しているか(炊いているか)否かによって、「米」と「飯」を区別するが、英語ではどちらもriceだ。強いて区別すれば、uncooked rice とcooked riceという複合表現になる。

 「水」と「湯」も、英語ではどちらもwaterであって、強いて区別すれば、cold water と hot waterという複合表現になる。

 日本人は、魚をよく食べるので、魚の名前が豊富であり、しかも、ブリ、スズキ、ボラのように、成長によって呼び名が変わる出世魚さえあるのに対して、英語ではfishだ。タコ、イカ、イトマキエイ、マンタですら、区別されずに、いずれもdevilfishだ。

 逆に、肉食である英語圏では、sirloin、tenderloin、fillet、 rib、tongueなど、肉の部位ごとに呼び方が異なるし、また、cow と beef、pig と pork、sheep と muttonのように、動物の名前と肉の名前が異なる。さらに、牛も、 cattle(牛の総称)、bull (オス牛)、 cow (メス牛) 、calf(子牛)と呼び分ける。


 このように日本語であろうと英語であろうと、身近で関心が高いものほど言葉がきめ細かく豊富になるのに対して、縁遠く関心が低いものほど大雑把な言葉になるわけだ。


 英語では、松と杉を区別せずに、いずれもCedar「針葉樹」と呼ぶのは、英語圏が森林破壊によって石文化になり、木が縁遠く関心が低くなったことを象徴しているのだ。


 メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシャ・ローマ文明は、いずれも森林の再生能力を超える伐採を行い、植林しなかったため、禿げ山だらけになり、文明が衰亡した。

 これらの文明は、森林破壊の礎に築かれたかりそめの文明にすぎなかった。


 これらの文明の後継者である西洋文明もまた自然破壊の上に成り立っている。

 少し前まで、西洋人は、「日本の家は、ウサギ小屋で、木と紙でできている」と散々馬鹿にし、日本のマスコミも追従(ついしょう)していたが、その度に、「自分たちが禿げ山にして、石の家に住まざるを得なくなったくせに、何を吐(ぬ)かす!」と立腹したものだ。

 最近になって、西洋人も、自然破壊が文明衰亡をもたらすことに漸(ようや)く気が付いて、偉そうにSDGs(Sustainable Development Goals)を押し付けがましく主張している。

 今こそ1万数千年の長きにわたって森の文明を維持している日本が主導権を握って、賢しらで傲慢な西洋人を啓蒙すべき時代になったと言える。

 

 『ドレミの歌』の「ドーはドーナッツのド♪」は、本来、doe, a deer, a female deer♪なのだが、doeは、「メス鹿」という意味だ。

 鹿の総称は、deerだが、オス鹿は、buck/stagで、メス鹿は、doeで、子鹿は、fawnで、鹿肉は、venisonだ。英語は、動物の表現が本当に豊かだ。

 大好きな映画The Sound of Music『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)のDo Re Mi

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