似て非なるもの

 小中学生の頃に父の書架にあった諸子百家の本を読んで、支那(シナ。chinaの地理的呼称)の天命思想・易姓革命を知った。


 ここに天命思想とは、天が徳のある者に天子たれと命じて統治させ、この者又は王位継承者が不徳者となれば、天が命令を革(あらた)め、別の有徳者に天子たれと命じて、新たな王朝を創始させるという思想をいう。天がその命を革めて別の姓の有徳者に易(か)えて治めさせるので、易姓革命という。

 不徳者は、禅譲(ぜんじょう。禅も譲も「ゆずる」の意。)という方法で有徳者に天子の位を譲るか、又は、暴力によって放伐(ほうばつ。追放し討伐する意。)される。


 高校の世界史や政治経済で、王権神授説が出てきた際に、「天命思想と似ているなぁ〜。洋の東西を問わず、人間というのは似たようなことを考えるものだ。」と思ったことを覚えている。


 ここにtheory of the divine rights of kings王権神授説とは、国王の支配権は、神から授かったものであるから、神聖不可侵だという説だ。

 古代・中世において、王権神授説的な考え方が一般的であったが、これが重要な意味を持つようになったのは、近代になって絶対君主制が確立する過程においてであって、対外的には、ローマ教皇に対する国王の独立性・対等性を、対内的には貴族や新興勢力である市民階級に対する国王の優越性を示すものだった。


 その後、キリスト教の理解が進むにつれて、天命思想と王権神授説は、似て非なるものだということに気が付いた。


 例えば、孟子は、「天、言(ものい)わず、行いと事とをもってこれを示すのみ。天の視(み)るは、我が民(たみ)の視るに従い、天の聴(き)くは、我が民の聴くに従う」(万章章句上五)と述べているように、民の声は、天の声なのだ。

 民の支持を失った不徳の天子は、天が天命を革めることにより、天子の位を失うわけで、天命も天子の正統性も可変的であり、天子の正統性は、常に有徳であることを試されるという意味で成果主義的なのだ。


 これに対して、王権神授説では、全知全能の創造主たる神が王権を授けたのだから、王権を奪うことは、神のみがなし得ることであって、人間ごときが行うことは許されないし、できるものでもない。

 神意も王の正統性も、人間にとっては不変的・固定的なのだ。王が暴君であっても、臣民は、王に絶対服従しなければならない。


 天命思想と王権神授説は、超自然的存在(天、神)が天子・王の位に就かせる点で、似ているが、前者の場合には、天子の正統性を人間が否定できるのに対して、後者の場合には、王の正統性を人間が否定できない点で、全く異なるわけだ。


 天命思想に類似するのは、王権神授説ではなく、むしろmonarchomachiモナルコマキ「暴君放伐論」だろう。

 暴君放伐論自体は、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の暗殺など、昔から論じられてきたが、これが重要な意味を持つようになったのは、16世紀後半に、フランスの新教徒ユグノー派が主張した頃からだろう。

 王による迫害に抵抗して教会の独立を守るため、不寛容な君主は暴君であり、暴君に服従する義務はなく、その殺害も許されるという思想だ。


 このように天命思想も暴君放伐論も、不徳者とされる天子・暴君とされる王側から見たら、テロ思想・革命思想なのだ。


 この暴君放伐論が、王権は臣民の同意又は契約に基づくという社会契約論と結び付き、その後、社会契約に反する支配者に対しては、抵抗権・革命権を持つというロックやルソーの社会契約論へと発展していく。


 私に言わせれば、ロックやルソーの社会契約論も、テロ思想・革命思想なのだが、それはともかくとして、西洋で君主制を維持した国では、王権を法的に制限することにより、王制の継続と自由の両立を図る立憲君主制へと移行した。

 これに対して、支那では、清朝を打倒して、皇帝制自体を廃止し、紆余曲折を経て、中国共産党による一党独裁体制へと移行した。皇帝制はなくなったが、やっていることは、天命思想(易姓革命)と同じであって、皇帝の姓が中国共産党に易わったにすぎない。


 翻って日本を見ると、天皇と国民が対立抗争したことは、いまだかつて一度もないので、天命思想(易姓革命)や暴君放伐論のような政治思想が必要とされなかったため、類似した政治思想が生まれなかった。

 そこで、天命思想・暴君放伐論と我が国の皇室制度(「天皇制」は、共産党用語)を比較することによって、日本文明の特長が明らかになると考える。


 すなわち、支那の天命思想や西洋の暴君放伐論は、頻繁に王朝交代を行うという意味で、暴力による断絶と再生(戦乱の世)の繰り返しが特徴であって、不安定な国家を生む。

 しかも、天子や王に権威と権力が集中・統合され(絶対権力)、その濫用により圧政が行われるリスクがあるし、また、全権力が集中するが故に、失政がすべて天子・王の責任とされて直ちに体制崩壊へとつながることから、一度壊して作り直すという動的だが不安定で継続性に欠ける国家になる。


 これに対して、我が国の皇室制度は、天壌無窮の神勅に基づき万世一系の天皇が統治するという神話と血統による継承が特徴であって、国家に一貫性・継続性・安定性が生まれ、国民に安心感を与える。

 しかも、時代を経るにつれて、天皇は、政治的実権(権力)を失い、権威を持つにすぎなくなったため、権力の集中や濫用による圧政のリスクがないし、また、天皇は、政治的実権(権力)を持たないことよって、政治的対立を超越した中立的な存在として、社会情勢の変化(ex.摂関政治、幕府)に応じて柔軟に対応することで皇室を維持することが可能となるから、静的・平和的に、いわば植物の成長のように壊さずに変わることにより、安定的・継続的な国家になる。

 さらに、皇室は、すべての日本人の本家かつ日本の伝統・文化の核心であるからこそ、天皇は、日本国の象徴・国民統合の象徴としての役割を果たすことができ、自然災害などの国難に際して精神的支柱となることができる。


 このように皇室制度は、抽象的な原理原則から生まれたものでもなければ、誰か特定の人が設計したものでもなく、長い歴史の中で育まれた自生的秩序であって、秘められた智慧(暗黙知)が内包されていることに驚きを禁じ得ない。


 これが日本文明の特長の一つだ。





源法律研修所

自治体職員研修の専門機関「源法律研修所」の公式ホームページ