我が国が近代国家になったのはいつか?

 もうすぐ1月30日だ。赤穂浪士が、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に吉良邸へ討ち入り、吉良上野介(きらこうずけのすけ)殿のみ首級(しるし)をあげて、主君浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)殿の無念を晴らしたことは、有名だ。

 赤穂浪士が切腹を命じられたのは、将軍家お膝元において武器を携え徒党を組んで市中を騒がせたからであって、決して復讐をしたからではない。復讐は、公認されていたからだ。


 復讐については、このブログでも古代ゲルマン人や古代ユダヤ人に関連して触れたが、我が国ではいつ頃から行われていたのだろうか?


 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト。のちの初代天皇である神武天皇)が、兄の五瀬命(イツセノミコト)とともに、ご東征の際中に、現在の東大阪市付近で、大和地方の豪族である登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ。長髄彦:ナガスネビコ)が放った矢で、五瀬命がお亡くなりになったので、これに復讐なさった話が記紀にある。

 これがおそらく我が国で記録に残っている一番古い復讐譚だと思われるが、戦での出来事であるから、私闘である復讐と同列視するのは不適切かも知れない。

 そうだとすれば、第23代天皇である顕宗天皇(けんぞうてんのう)が、その父である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)が大泊瀬皇子(おおはつせのみこ。のちの第21代天皇である雄略天皇)によって殺されたことを怨んで、雄略天皇のご陵を壊して復讐なさったことが記紀に見えるので、これが、記録上最古の復讐譚ということになろうか。


 いずれにせよ、記録に残るずっと昔から復讐が行われていたであろうし、また、皇族すらもこのように復讐を行なっておられたのだから、庶民においても記録に残らぬ無数の復讐譚があったと思われる。他の民族と同様に、我が国でも古くから復讐が行われていたことは間違いなかろう。


 注目すべきは、古来より明治に至るまで数千年の長きにわたって復讐が公認されていたことだ。これほど長く復讐が公認されていた国は、おそらく先進国の中では我が国だけではなかろうか。

 もっとも、藤原不比等(ふじわらのふひと)の『賊盗律(ぞくとうりつ)』は、復讐を禁止したかったのだろう。自分の尊属が殺されたことを知りながら、三日経ても訴え出て裁きを求めなければ処罰する旨を定めていたが、実効性はなかったようだ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532999/19


 では、なぜ、これほど長きにわたって復讐が公認されていたのか?


 今ならば、国家(司法権)が被害者側に代わって加害者を処罰してくれるのだが、我が国では、このような国家権力(司法制度)が確立していなかったため、①復讐こそが生命・自由・財産・名誉等の権利利益を守る唯一の手段だったことが一番大きな理由だろう。 

 また、②復讐は、やられたらやり返すという人間の自然な感情の発露であり、被害者側の感情をある程度収める効果があったし、また、③復讐には、やったらやり返されるからやめておこうという犯罪抑止効果があり、逆説的であるが、社会秩序を維持する効果もあったことも理由として考えられる。

 さらに、④このような復讐は、美談として賞賛されたことも大きな理由だろう。曾我兄弟の仇討(あだう)ち、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、忠臣蔵の3つは、日本三大敵討(かたきう)ちとして、何度も芝居で上演され、庶民は拍手喝采した。今ならば、さしずめ様々な苦難を乗り越えて見事優勝を果たしたアスリートに熱狂するような感じだと思えば、理解しやすいかも知れない。換言すれば、それだけ復讐は、困難を極め、滅多に成功しなかったのだ。我々の先祖たちは、野蛮で暴力的な話自体が好きだったわけではなく、協力して苦労に苦労を重ねて努力が報われて勝利した話が好きだったのだ。昔から「友情・努力・勝利」という『少年ジャンプ』のコンセプトが好きだったわけだ。

 武士の敵討ちにどれほど庶民が熱狂したかが分かるエピソードがある。忠臣蔵は、芝居関係者から「独参湯(どくじんとう)」と呼ばれていたそうだ。芝居小屋の客入りが悪い時には、忠臣蔵を上演しさえすれば、満席になるので、忠臣蔵は、気付け薬の特効薬である「独参湯(どくじんとう)」に喩(たと)えられたわけだ。江戸時代に武士道が庶民の間にも普及していたことの証しであるとも言えよう。

 ちなみに、鳥取県庁へ出講した際に、伊賀越の仇討ちで有名になった荒木又右衛門(あらきまたえもん)のお墓が鳥取市の玄忠寺にあることを知って、お参りしたことがある。花がたむけられ、線香が供えられていた。今でも墓参者が絶えないようだ。


 このように復讐は、公認されてはいたが、巷(ちまた)でしょっちゅう復讐が行われていたら、物騒で治安が悪くなることも事実だ。被害に比して過大な復讐が行われると不公平だし、復讐が復讐を生んで復讐の連鎖が止まらないおそれもある。

 そこで、復讐を公認しつつも、これを制限するようになる。例えば、戦国時代の土佐の大名である長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が定めた『長曾我部元親百箇条』には、親の敵(かたき)を子が打ち、兄の敵を弟が打つのは良いが、弟の敵を兄が打つのは逆だから許されないという風に、目上の者が目下の者の敵討ちをすることを禁じ、人的な制限を加えている。

 また、手続的な制限も設けられるようになった。徳川家康公直筆で老中(ろうじゅう。幕府の重役のこと。)以外は見ることができないと伝えられてきた『御遺状百ヶ条(ごゆいじょうひゃっかじょう)』(現在は、偽書であることに確定しているが、夥(おびただ)しい写本が残されていることから、江戸時代の人々は、これを疑いもせずに信じていたと言われている。)には、勝手に敵討ちをすることができず、敵討ちを願い出て帳簿に記載し、お許しを貰わなければならないとされ、また、復讐の連鎖を断ち切るために、敵討ちの敵討ち(「重敵(またがたき)」)が禁止されていた。

 そこで、藩士が敵討ちをする場合には、まず主君の許可を得て免状を受け、藩主は、幕府の三奉行所に届けを提出し、奉行所は、帳簿にその旨を記載して、当該藩士は、その謄本(とうほん)を受け取る。これらの書類さえ持っていれば、藩領を越えて全国どこでも敵討ちをすることができるという手続が出来上がったわけだ。


 明治になってからも事情は変わらなかった。明治元年(1868年) に『假刑律(かりけいりつ)』が編纂(へんさん)された。これが明治政府初の刑法典であるが、公布・施行されることもなく、単なる政府内部の指針にとどまった。

 「祖父母、父母毆(う)タレ死ニ至(いたり)、因(よっ)て行兇人(こうきょうにん。敵のこと。)ヲ殺スハ無論(ろんじるなかれ)」(ルビ・注:久保。)。

 つまり、祖父母・父母を殺された場合に、敵を殺しても無罪とされていたわけで、復讐が公認されていた


 そこで、明治3年(1870年)に制定・公布された正式な刑法典が『新律綱領(しんりつこうりょう)』だ。全6巻8図14律192条から成る。旧刑法が明治15年(1882年)に施行されるまで行われた。

 この『新律綱領』を編纂するにあたって、古来より不可罰とされてきた復讐をどうすべきかが議論になり、事前の届出をせずに敵を擅殺(せんさつ。ほしいままに殺すこと。)した場合を処罰すべしと考えた刑部省から下問を受けた大学の博士たちは、これを不可罰にすべしと反対したのに対して、助教たちは、刑部省の案に賛成して処罰すべしと主張し、制度局も賛成したことから、刑部省の案が採用された。

 つまり、祖父母・父母を殺され子孫が敵討ちを官に事前に届出ずに敵を擅殺した者は、笞刑(ちけい。鞭打ち刑のこと。)50回に処せられることになったが、祖父母父母を殺されて即時に敵を殺して官に届出た場合には無罪とされた。事前の届出を怠ったことが罪に問われただけであって、復讐が公認されていたことに変わりはなかった


 ところが、明治5年(1872年)、江藤新平(えとうしんぺい)卿が初代司法卿(現在の法務大臣・最高裁判所長官・国家公安委員会委員長)になると、我が国を欧米のような法治国家にしようと思って、復讐禁止令の原案を左院(太政官内に設置された立法の諮問機関)に提出した。

 かなり反対論が強かったらしいが、明治6年に、「復讐ヲ嚴禁ス(明治六年二月七日太政官布告第三十七號)」という復讐禁止令が発布された。この復讐禁止令は、江藤卿の意見書とほぼ同じ内容の名文だから、おそらく江藤卿自ら筆を取ったものと思われる。

 「人ヲ殺スハ國家(こっか)ノ大禁(たいきん)ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權(こうけん)ニ候處(そうろうところ)、古來(こらい)ヨリ父兄(ふけい)ノ爲(ため)ニ讐(あだ)ヲ復(ふく)スルヲ以(もっ)テ子弟(してい)ノ義務(ぎむ)トナスノ風習(ふうしゅう)アリ、右(みぎ)ハ至情不得止(しじょうやむをえざる)ニ出(いず)ルト雖(いえど)モ、畢竟(ひっきょう)私憤(しふん)ヲ以(もっ)テ大禁(たいきん)ヲ破(やぶ)リ私義(しぎ)ヲ以(もっ)テ公權(こうけん)ヲ犯ス者ニシテ、固(もとより)擅殺(せんさつ)ノ罪ヲ免(まぬが)レス。加之(これにくわうるに)甚(はなはだ)シキニ至(いた)リテハ其事(そのこと)ノ故(ゆえ)誤(あやまり)ヲ問ハス其理(そのり)ノ當否(とうひ)ヲ顧(かえり)ミス、復讐ノ名義ヲ挾(はさ)ミ濫(みだ)リニ相搆(あいかまえ)害スルノ弊(へい)往々有之(おうおうこれあり)、甚以相濟事(はなはだしきをもってあいすむこと)ニ候(そうろう)。依之(これより)復讐嚴禁被(ふくしゅうはげんにきんじられ)、仰出候條(おおせいでられそうろうじょう)、今後(こんご)不幸(ふこうにして)至親(しんし)ヲ害セラルヽ者於有之(これあるにおいて)ハ、事實(じじつ)ヲ詳(つまびらか)ニシ速(すみやか)ニ其筋(そのすじ)ヘ可訴出候(うったえでるべくそうろう)。若(もし)無其儀(そのぎなく)舊習(きゅうしゅう)ニ泥(なず)ミ擅殺(せんさつ)スルニ於(おい)テハ、相當(そうとう)ノ罪科(ざいか)ニ可處候條(しょすべくそうろうじょう)、心得違無之樣可致事(ここえちがいこれなきよういたすべきこと)。」(ルビ:久保)

 つまり、復讐は禁止され、近親者を害された者は、事実を明らかにしてできるだけ早く司法官憲に訴え出なければならず、国家が被害者に代わって加害者を処罰することになった古い慣習である敵討ちにこだわって擅殺(せんさつ)した場合には、「相当の罪科」に処すことになったわけである。

 そして、「相当の罪科」を明らかにすべく、明治六年四月二日太政官布告第百二十號により、親の敵討ちも普通の謀殺をもって論じ斬罪に処することになった

 

 古来より誰もなし得なかった復讐禁止が行われたことの意義は、計り知れないほど大きい。歴代の天皇や将軍などの天下人ですらその権威権力を及ぼすことができなかった復讐を禁止することによって、史上初めて国家が刑罰権を独占して国家権力(司法権)を確立し、我が国が近代国家になったことを意味するからだ。


 標題の「我が国が近代国家になったのはいつか?」と問われれば、私は、躊躇(ためら)うことなく復讐禁止令が発布された明治6年と答える

 「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」という俵万智(たわらまち)さんの有名な現代短歌があるが、これになぞらえれば、「『復讐厳禁』と君が言ったから明治六年はエポックメーキング」ということになろうか。


 もっとも、大日本帝󠄁國憲󠄁法が公布された明治22年(1889年)2月11日又は施行された明治23年(1890年)11月29日ではないのかというご意見もあろうが、成文憲法がなくても、古来より我が国には不文憲法があったればこそ大政奉還がなされたのであって、賛同し得ない。

 古代に制定された律令制は、明治まで残っており、例えば、太政官(だじょうかん。慶応4年よりも前の「太政官」は、「だいじょうかん」と呼んで、慶応4年以後の「太政官(だじょうかん)」と区別するのが習わしだ。)制は、官制の改廃が著しいけれども、明治18年(1885年)に内閣制が発足するまで存続していた。政体(慶応四年太政官達第三百三十一号)においては、太政官は、立法・行政・司法を掌握していたが、復讐を公認していたために、司法権のみ不完全であった復讐禁止令によって初めて国家が刑罰権を独占し、完全な司法権が確立したわけだ。それ故、我が国が近代国家になったのは、復讐禁止令が発布された明治6年だと考えた次第だ。

 ただ、制度上、司法官は、行政官の監督を受けていたため、江藤卿は、司法権の独立を図るべく孤軍奮闘することになるが、その話は、また別の機会にするとしよう。

cf.政体(慶応四年太政官達第三百三十一号)

(略)

一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法司法行政ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ

一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之

(略)


 それにしても、近代国家成立の立役者である江藤新平卿は、頭が切れすぎた。欧米に留学したことがなく、情報も乏しいのに、近代国家の本質をズバリ見抜いて、快刀乱麻を断つが如く、復讐禁止令を草案し、司法制度を確立するなど、諸問題を解決したのだから。

 佐賀地方検察庁のHPに載っている江藤卿のお写真を拝見すると、実に神経質そうで苛立っているようにお見受けする。頭が良すぎて、何手先も読めたから、読めない周りの人々に苛立ちつつ、国難に如何に対処すべきかで頭の中が一杯で、周りに気を使う心の余裕すらないように見える。当時の人々の江藤卿に対する人物評価が分かれているのもそのためではなかろうか。

 敵討ちを遂げて切腹した大石内蔵助を主人公とするNHKの大河ドラマが過去3回あったのだから、敵討ちを禁止し、自ら作った司法制度によらずに非業の死を遂げた江藤卿を主人公とした大河ドラマがそろそろ登場してもいい頃だ。



 



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