明治2年に出版された『英和対訳袖珍辞書』には、judgementを「罪ノ言ヒ渡シ判断」と訳する一方で、judiciaryなどの訳に「裁判」を用いている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/870101/219
父方母方の曽祖父母は、江戸時代の人だし、私が子供の頃には、明治生まれの人がたくさんいたから、いろいろ訊いておけば良かったと後悔してもいまさら遅いのだが、明治初期の裁判制度については、未だ解明されていないことが多い。
ここではそのようなマニアックなお話は省いて、『法令全書』(余談だが、『法令全書 慶応3年』には掲載されていない法令が多い。)を中心に、国家機構の改革の流れに沿って明治以降の裁判制度の概要についてざっくりと見てみようと思う。
ご存知のように、慶応3年12月9日、「王政復古の大号令」が発せられた。
この王政復古の大号令は、大政奉還と将軍職辞退、旧来の摂政、関白以下の朝廷組織を廃止し、総裁、議定、参与の三職を新たに設けることを内容としている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/9
そして、明治元年(慶応4年9月8日より「明治」に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用されるので、このブログでも「慶応四年」と表記せずに、「明治元年」と表記する。)正月十日第十七号、いわゆる「王政復古の国書」が各国公使に通告された。
この中に「親裁」という言葉が出てくるが、これは「裁判」の意味ではなく、天皇自らが裁断を下す(決定する)という意味にすぎない。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/51
日本国天皇、各国帝王及び其(そ)の臣人に告ぐ。嚮者(さきに)将軍徳川慶喜が政権を帰さんことを請(こ)い、制してこれを允(ゆる)し、内外の政事(せいじ)は、これを親裁(しんさい)す。乃(すなわ)ち曰(いわ)く、従前の条約、大君の名称を用いると雖(いえど)も、自今(いまより)而後(しかるのち)は、當(まさ)に天皇の称を以(もっ)て換ふべし。而(しこう)して各国交接の職は、専(もっぱ)ら有司(ゆうし)等に命ず。各国公使この旨(むね)を諒知(りょうち)せよ。
(読み下し文・ルビ:久保)
そして、『法令全書 慶応3年』をさらに見ていくと、明治元年正月十七日第三十六号で三職分課が定められている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/56
明治維新政府は、鳥羽伏見の戦いに勝利したことから、懸案だった機構改革に取り組んで、前述の三職制を整備して三職を八課に分け(いわゆる三職七科制)、担当分野を細分化・明確化したわけだ。
すなわち、総裁が「万機ヲ総裁シ一切ノ事務ヲ決ス」、議定が「事務各課ヲ分督シ議事ヲ定決ス」、参与が「事務ヲ参議シ各課ヲ分務ス」とされた。
そして、国家機関として神祇事務、内国事務、外国事務、海陸軍務、会計事務、刑法事務、制度寮の七科が設置された。
このうち、「刑法事務総督」は、「監察(監督し取り締まること。)弾糺(だんきゅう。問い質すこと。)捕亡(ほぼう。逃げる者を捕まえること。)断獄(罪を裁くこと。)諸刑律(刑罰に関する決まりのこと。)ノ事ヲ督ス」とされ、刑事司法に関する広範な権限が与えられた。
興味深いのは、この三職七科制には、民事司法について一切触れられていない点だ。
私の勝手な想像なので、鵜呑みにしないでいただきたいのだが、幕末の動乱により、治安維持が急務だったこと、藩から裁判権を奪うことについては藩の抵抗が予想されたこと、各地方により慣習法が異なることから、民事司法については、これまで通り、各藩が裁判を担当することにしたのではあるまいか。
そして、明治元年正月十九日第四十二号には、「會計事務裁判所」という言葉が突然出てくる。
徳川家の領地(天領)であった江戸が天皇の領地(天朝領)になることから、その領内の民事裁判(公事くじ)については、会計事務裁判所へ訴え出るようにというお達しだ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/59
「会計事務ニ拘(かか)リ候儀(そうろうぎ)都テ会計事務裁判所ヘ可申出候事(申し出るべくそうろうこと)」、「但(ただし)裁判所(さいばんしょは)金穀出納所内(きんこくすいとうしょない)ニ被設候事(もうけられそうろうこと)」
(ルビ:久保)。
明治元年2月3日には、機構の改革により、三職八局制が定められ、刑法事務局が設けられた。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/62
この刑法事務局も刑事司法を所掌しているだけで、民事司法は管轄外だった。
五箇条の御誓文に基づいて、明治元年閏4月21日に発布された第三百三十一号「政体書」は、天下の権力(政権のこと。)を総て太政官に帰属させ、その太政官の下に議政、行政、神祇、会計、軍務、外国、刑法の七官を置き、太政官の権力を立法・行政・司法に分けて、議政官に立法を、刑法官に司法を、そして他の五官に行政をそれぞれ担当させることなどの機構改革を行った。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/119
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/120
その結果、刑法官は、断獄(刑事裁判)を担当し、聴訟(民事裁判)は、民政担当の機関が管轄していたが、明治元年12月の達で会計官租税司が担当するようになった。
しかし、聴訟(民事裁判)は、明治二年正月第九十一号により会計官訴訟所が、明治二年四月十日第三百五十二号により民部官が担当することになった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/60
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/109
ところで、前述したように徳川家の領地が天朝領になったため、取り急ぎ天朝領内の裁判を制度化しなければならない。
そこで、前述したように中央には会計事務裁判所を設け、他方、京都の天朝領には京都裁判所を置いたが、明治元年閏四月二十五日第三百四十五号の京都裁判所ヲ改テ京都府ト為(な)スノ令により、京都府と改められた。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/125
同様に、明治元年、大阪鎮臺(鎮台ちんだい)を大阪裁判所(同年大阪府と改称)、兵庫鎮臺を兵庫裁判所(同年兵庫府と改称)とするなど、12の地方天朝領に「裁判所」という名称の地方行政庁を置いたが、いずれも府県と改称された。
このように明治元年の時点では、明治維新政府の司法権は、ごく一部の地域に限られ、全国に及んでいなかった。
ところで、以前、お話ししたように、我が国においては、江戸時代まで行政と司法が未分離であった。行政も司法も法を執行するという意味で、奉行所・代官所は、執行権を担当していた。
これは明治初期も同様であって、会計事務裁判所も京都裁判所も大阪裁判所も兵庫裁判所等も行政と司法を担当していたわけだ。
ここで一つの疑問が生ずる。
前回お話ししたように、古代末から中世末に「裁判」という漢語が用いられていたとはいえ、その後、あまり使われなくなった「裁判」が明治元年になって突如として「裁判所」という形で用いられるようになったのはなぜなのだろうか。
恥ずかしながら、勉強不足でよく分からない。自分勝手な想像を述べると、明治維新政府が薩長土肥の藩閥政治であったことが関係しているように思うのだ。
すなわち、長州藩(萩藩)においては、市街地(萩・山口・三田尻)を「町方」(まちかた)と呼び、農村を「地方」(じかた)と呼んだ。
地方は、郡奉行(こおりぶぎょう)の支配下に置かれ、地方を20〜30の郷村ごとに18の「宰判」(さいばん)と呼ばれる行政区域に分け、それぞれに代官を派遣して管轄させた。宰判ごとに置かれた代官所に相当する役所を長州藩では「勘場」(かんば)といった。
http://www.ootoshi-comm.info/pdf/chiiki/hakkobutsu/shogakko/003.pdf
山口県教育会編『山口県百科事典』(大和書房)324頁・325頁によると、「宰判」だけでなく、「裁判」あるいは「才判」の字も用いられていたそうだ。「宰」は、つかさどる・おさめるという意味であり、「宰判」と「裁判」は同義だからだろう。
確証はないが、明治維新政府の一翼を担う長州藩は、京都・大阪・兵庫など地方に点在する徳川家の旧領地を「宰判」と呼ぼうと提案したのではあるまいか。
しかし、それでは長州の色合いが強過ぎて、まるで長州藩が徳川家の旧領地を治めるかの如き誤解を招き、反乱が起きかねないので、妥協の産物として、「宰判」と同義である「裁判」+代官所=「裁判所」と呼ぼうではないかということになったような気がするのだ。
そこで、一旦、徳川家の旧領地を治める地方行政庁を「裁判所」と名づけてみたが(ex.京都裁判所、大阪裁判所、兵庫裁判所)、これではjudgement「裁判」のみを担当するかの如き誤解を招きかねないので、「府県」(ex.京都府、大阪府、兵庫県)に名称を改めたのではないかと思われるのだ。
廃藩置県は、明治4年7月14日なので、明治元年の「裁判所」から「府県」への名称変更とは直接の関係はない。
さて、明治維新政府は、中央集権体制をより強固にすべく、明治2年7月8日に制定した職員令によって、太政官が立法・行政・司法の三権を一元的に統轄し、国家意 思の形成・決定は、左右大臣・大納言・参議によって構成される三職会議で決定する仕組みにした。
この太政官の下に、司法権は、司法行政権と刑事裁判権を所管とする刑部省、 民事裁判権を所管とする民部省、それに訴追権を保有する弾正台に分掌されており、地方においては、府藩県の 司法権は、地方官が所掌することになった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/161
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/162
現代の我々から見れば、この職員令の問題点は明らかだ。三権分立制が採られていないし、司法権の独立も保障されておらず、しかも司法権が4つに分断され、相互の関係が不明確だ。
この職員令の問題点を看破したのが江藤新平だ。当時35歳だった江藤は、佐賀藩の藩政改革に取り組んでいたが、明治2年11月8日、太政官中弁に任じられた。
「中弁」というのは、太政官に所属する「大弁」と「小弁」の中間で、これら「弁官」は、各省や地方官等から提出された願・届・伺などを吟味して、意見書を付して参議に提出し、参議がこの書類を検討の上、三職会議で公表して議決することになっていた。しかも弁官は、太政官布告・達などの法令の起案も担当していた。前述したように太政官は、立法・行政・司法を一元的に統轄していたから、太政官弁官こそが、国家中枢の実務を取り仕切る高級官僚だったわけだ。
江藤は、高潔で、孤高の天才だった。それ故、恨みを買うことが多く、明治2年12月20日夜、佐賀藩邸へ向かう途中で佐賀藩士6名に襲撃されて、肩を刺されて重傷を負っている。佐賀藩主鍋島直正公は、6名全員を死罪に処し、明治天皇は、江藤に菓子と養生料150両を下賜された。
傷が癒える間も無く、江藤は、明治3年2月30日に太政官中弁と制度局御用掛兼務を命ぜられ、激務をこなしながら『政治制度上申案箇条』を起草し提出している。
この中で、江藤は、①三権分立制、②議会制、③憲法制定、④刑部省及び弾正台の廃止、後の司法省に相当する司法台の新設、 司法台による府藩県の刑事・民事裁判権の接収による司法権の一元化、全国に一等裁判所(司法台。現在の最高裁判所。)、二等裁判所(全国に八箇所。現在の高等裁判所。)、三等裁判所(府藩県裁判所。現在の地方裁判所。)、四等裁判所(郡坊裁判所。現在の簡易裁判所。)を設置することなどを提言しており、立憲君主制と殖産興業による資本主義の発展、ひいては不平等条約の改定を企図するものだった。
江藤こそがその後の新日本建設のグランドデザインを描いたと言っても過言ではない。
江藤の提言を基に、明治4年7月9日に、刑部省(ぎょうぶしょう。律令制の八省の一つで、裁判と処罰を担当する省。)と弾正台(だんじょうだい/ただすつかさ。律令制において風俗の粛正と非違の取締りにあたる警察機関。)が廃止され、新たに「司法省」が設置された。
すなわち、明治四年七月九日の太政官布告第三百三十六号により「自今(今より)刑部省(と)弾正台(を)被廃(廃せられ)司法省(を)被置候事(置かれそうろうこと)」、明治四年七月九日の太政官布告第三百三十七号により、「従来取扱掛候(取り扱いかかりそうろう)事務(を)一切司法省ヘ可引渡候(引き渡すべくそうろう)」となった(ルビ:久保)。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/177
この司法省の権限は、「掌総判執法申律折獄断訟捕亡」とされた。
執法(しっぽう。法を執行すること。)、申律(しんりつ。法律解釈のこと。)、折獄(せつごく。刑事裁判のこと。)、断訟(だんしょう。民事裁判のこと。)、捕亡(ほぼう。罪人を捕まえること。)を総判(そうはん。統率すること。)することを掌(つかさど)る(読み下し文・ルビ:久保)。
つまり、司法行 政 ・法律解釈 ・刑事裁判 ・民事裁判 ・警察の権限を掌握したわけだ。いわば現在の法務省・内閣法制局・裁判所・警察庁が一体になったものが当時の司法省だった。
しかし、この改革は、江藤が意図したものとはほど遠く、不徹底だった。
すなわち、明治四年七月二十九日太政官達第三百八十六号の別冊「正院事務章程」により、「凡(およそ)立法施政司法ノ事務ハ其(その)章程ニ照シテ左右院ヨリ之(これ)ヲ上達セシメ本院之ヲ裁制ス」と定められた。
「裁制」とは、「作る。定める。また、おさえる。」という意味だ(『普及版 字通』平凡社)。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/186
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/187
つまり、従来の太政官を分けて、正院(せいいん)、左院(さいん)、右院(ういん)の三つとし、正院が他の二院に優越して「立法施政司法ノ事務」(立法・行政・司法)を最終的に決定する最高決定機関であり、司法省は中央の司法機関にすぎず、司法権の独立には程遠かった。
明治4年7月14日に廃藩置県が行われたが、地方の司法機関は、地方官だった。
司法省が全国の裁判権を掌握するためには、府県の裁判権を接収する必要がある。
そこで、明治四年十二月二十六日太政官布告第六百七十七号により、行政庁たる司法省内に東京裁判所が設けられた。これが我が国初の司法裁判所だとされている。
すなわち、「東京府下聴訟断獄共同府へ司法省官員出張取扱来候處来二十七日ヨリ同省内へ引移別局ヲ設ケ當分東京裁判所ト稱シ右事務一切取扱候條此段可相心得事」
東京府下の聴訟(ちょうしょう。民事裁判のこと。)断獄(だんごく。刑事裁判のこと。)は、共(とも)に同府へ司法省官員が出張し取扱い来たりし候(そうろう)處(ところ)、来たる二十七日より同省内へ引き移し別局を設け、当分東京裁判所と称し、右事務一切を取扱い候(そうろう)條(じょう)、此段(このだん)相(あい)心得(こころえ)るべきこと」(ルビ:久保)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/264
これにより、従来の「聴訟断獄」に代わってjudgementの訳語としての「裁判」の意義が明確になった。
明治5年3月東京府の六大区に3つの「区裁判所」が置かれた結果、区裁判所の判決に不服ある場合には、東京裁判所に上訴できることになるから、限定的ではあるが審級制が初めて設けられたことになる。
さて、司法省設置以来初代司法卿は長らく空席だったが、明治5年4月、初代司法卿に任ぜられたのが江藤新平だった。廃藩置県前から司法改革を唱え、民法典編纂にも携わり欧米諸国の法制度に詳しいことから、抜擢されたのだろう。
しかし、司法卿江藤は、岩倉使節団の一員として渡米する予定だった。洋行帰りの発言力が日増しに強くなるため、江藤自身もこの目で世界を見たかったと思う。
ところが、太政大臣三条実美から渡米をしばし見合わせてほしいと頼まれたため、江藤は、日本にとどまり、司法卿として司法改革に邁進することになる。
府県の裁判権の接収は、東京府だけにとどまっていたが、地方官から府県の裁判権を接収して司法省が全国の裁判権を掌握すべく、明治5年8月3日、司法省は、臨時裁判所、司法省裁判所、出張裁判所、府県裁判所、各区裁判所を置くことにし、手始めに神奈川・入間・埼玉の3県に府県裁判所を設置した。
しかし、地方官の強い抵抗や人材・財源不足から一挙に全国に設置できず、漸次全国にその制度を広げていった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/142
各裁判所の管轄や相互関係については、マニアックなので、省略する。
江藤は、このような司法改革にのみ専念していればよかったと思うのだが、派閥の利害とは無縁の高潔な性格で職務に忠実であるが故に、国費を浪費し私腹を肥やす政府高官が目に余ったのだろう。司法省の警察権を行使して汚職捜査に乗り出したため、山縣有朋(長州藩)が一時失脚させられ、また、大蔵省を取り仕切っていた井上馨(長州藩)や渋沢栄一(幕臣)の専横を糾弾し、長州藩の恨みを買い、明治6年1月、司法省予算削減に抗議して司法卿を辞職した。
同年4月、請われて参議になるが、再び汚職を糾弾して長州藩の恨みを買った。
同年10月、征韓論をきっかけに西郷隆盛・板垣退助・副島種臣とともに参議を辞職し、下野し、副島種臣らと共に日本初の政党「愛国公党」を結成し、「民撰議院設立建白書」を発表した。
明治7年、不平士族を抑えるために佐賀へ帰郷したが、首領として擁立されて、佐賀の乱で官軍と戦った。決起を促すために高知へ立ち寄った際に、手配写真により面が割れて捕縛された。この手配写真制度は、明治5年に江藤が自ら作ったもので、手配写真第一号が写真嫌いで有名だった江藤になったのは皮肉だ。
もっと皮肉なのは、江藤が心血を注いで作った裁判手続を経ることなく、賊として打ち首にされ、その首が獄門台に晒(さら)されたことだ。
辞世の句は、「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」だ。
人望において西郷に劣り、頭脳において江藤に劣る大久保利通の嫉妬による私刑だとも思えるが、後に大久保が江藤をして秦の商鞅に相似たりと述べていることから、日本の商鞅たる江藤に秦の商鞅のような非業の死を与えたことは、大久保なりの捻じ曲がった敬愛の情の表れなのかも知れぬ。
同時代人の政治家土方久元は、「我、維新前後の人物とは知人多し。しかし就中(なかんずく)自分が真に豪傑と思う者は西郷南州と江藤新平と二人しかおらぬ」と述べている。
その後、江藤が描いたグランドデザイン通りに制度改革が進められていく。
明治8年4月14日太政官布告第五十九号により、臨時裁判所が廃止され、「審判ノ権ヲ鞏(かた)ク」するため、常設の「大審院」(現在の最高裁判所に相当する裁判所。)が設置されて、初めて司法権が独立するとともに、大審院の下に上等裁判所・府県裁判所を置くことにより審級制度が採られて法解釈の統一が図られるようになった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787955/102
明治9年9月13日太政官布告により、「府県裁判所」の名称を改め、「地方裁判所」を置くことになった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787956/266
明治16年出版の司法省編訳『法律語彙初稿』には、jugementの訳として「裁判」が記載されている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/786206/350
そして、明治22年、江藤が熱望していた大日本帝国憲法が発布され、これに伴う大赦令により江藤の名誉が回復された。大正15年に正四位を贈られている。
なお、商鞅については、以前、少し触れた。
江藤新平についても、少し触れた。
0コメント