時効の法理

生徒 先生、こんにちは。公務員試験とは無関係の質問ですけど、よろしいでしょうか?

老先生 うむ、なんじゃね?

生徒 民法の授業で、「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。」(民法第206条)と習ったんですけど、これって憲法第29条第1項が「財産権は、これを侵してはならない。」と保障しているからですよね?

 国家が誕生する前の遙か昔において、最初の所有権って何によって保障されていたのですか?

老先生 う〜ん、難しい質問じゃな〜。これから述べることは、あくまで私見にすぎず、判例・通説ではないから、決して鵜呑みにせずに、自分自身で考えて欲しいのじゃが。

 有史以前の話でタイムマシンがないから、確証はないが、はっきり言えることは、地球上の土地は、もともと誰の物でもなかったということじゃ。

 今でも起きている侵略戦争や不法占拠から推論すれば、農耕が始まって、「ここは俺の物だ!」と縄張りを主張し、これに反対する者を武力で押さえ込んでおったのじゃろう。

生徒 「力は正義なり」ですね。

老先生 まあ、そうじゃな。そちは、民法でprescription「時効」を勉強済みかの?

生徒 はい。

老先生 取得時効の趣旨は、なんじゃ?

生徒 え〜っと、永続した事実状態を尊重すること、権利の上に眠れる者は保護に値しないことです。

老先生 よく覚えておるの。最初は、武力で縄張りを主張しておったとしても、その事実上支配している状態が何十年、何百年、何千年と続けば、legitimacy「正当性」(社会通念上、道理に適っていると認められる状態であること)が認められるのじゃよ。

 これは、個人の土地所有であろうと、国家の領土であろうと、同じじゃ。

 日本は、島国で、異民族による支配を受けたことがないから、イメージしやすいのじゃが、日本列島は、少なくとも縄文時代から日本人が事実上支配し続けておるから、日本人の土地じゃと正当性が認められるわけじゃよ。

生徒 なぜ事実上支配している状態が永続すると、正当性を獲得するのでしょうか?

老先生 これは、法とは何かという難問に関わるんじゃ。

 我が国では成文法(条文の形に成っている法)主義が採られ、不文法(条文の形に成っていない法)たる慣習法は、成文法を補充するものとして位置付けられておるにすぎないのじゃが、慣習法も法であると認める以上、成文法だけでなく慣習法をも包含した整合性のとれた法理論であるべきじゃ。

 そうすると、法というのは、理性に基づいた抽象的な原理・原則から演繹的・合理的に設計された制度ではなく、social order「社会秩序」を維持するために、長い歴史を通じて形作られ実践されてきたcustom「慣習」の積み重ねであるcommon law「慣習法」だと考えるべきじゃ。

 慣習法には、世代を超えて蓄積されてきたsocial knowledge「社会的知見」、実地検証されtest of time「時の試練」に耐えて生き残ってきたliving wisdom「生きた智慧」が内在しておるから、経験則上、慣習法に従えば、通常、何事も上手くいくし、社会が上手く安定し継続するわけじゃ。だからこそ人々は、これが従うべき法だと確信するとも言える。

 このように法は、正義の実現以前に、社会秩序を維持することを目的としておるんじゃよ。それ故、法は、事実上支配している状態が永続している場合には、社会秩序を維持するために、これに正当性を付与して所有権を認め、これをinheritance「相続」させるのじゃ。その方が社会が安定し継続できるからじゃよ。

 このように所有権に限らず、right「権利」とは、伝統や歴史の中で形成されたprescriptive right「歴史的権利」・「時効取得された権利」・「慣例による権利」であって、ジョン・ロックやジャンジャック・ルソーが主張するような、抽象的な原理・原則から演繹されたa priori rights「先験的権利」(ex.自然権)ではないんじゃ。自由は、理性の産物ではなく、経験の産物なんじゃよ。

生徒 難し過ぎて、よく分かりませんが、例えば、奴隷制度のように、多数派によって長年続けられた制度だからといって正当だとは限らないわけで、時効による正当性を過信すれば、改革を阻む可能性があるのではないでしょうか?

老先生 鋭い指摘じゃの〜。確かに、伝統や慣習を墨守しておっては、奴隷制度のような、不条理な制度を改めることができなくなってしまう。

 しかし、だからといって理性万能主義による急進的な変革がもたらす社会の不安定化は、決して許してはならん。我々人類は、フランス革命やロシア革命がもたらした反人道的結果から、これを学んだはずじゃ。

 気が遠くなるほどの長い年月をかけて、先人たちが試行錯誤し、時の試練に耐えて生き残り、自然発生的に生まれた秩序・制度・言語等には、先人たちの叡智が内在しておるから、これを尊重し、後世へと継承すべきであって、軽々しく廃棄したり変更したりすべきではなく、gradual reform「漸進的改善」をすべきなのじゃ。

 変化を否定するのではなく、社会秩序を維持しつつ、社会の不条理を少しずつ改めていくことが実践的であり健全なのじゃよ。

生徒 なんだかまどろこしいなぁ〜

老先生 そちは、若く血気盛んじゃから、一気に改革したくなるのじゃろう。「一寸先は闇」と言われるように、人間には未来が全く分からないのに、分かった気になって理性によって急進的に改革することは、経験則上、無用な混乱をもたらし、失敗に終わることは、歴史的に証明されておる。人間は、無知だからじゃ。「石橋を叩いて渡る」が如く、漸進的に改善していくのが無難なのじゃよ。

 そちが挙げた奴隷制度について言えば、イギリスの場合には、下院議員ウィルバーフォースらの粘り強い議員活動により、1807年に奴隷貿易禁止法が制定され、1833年に奴隷制度が廃止されるに至ったのじゃが、アメリカの場合には、急進的に奴隷制度を廃止しようとした結果、社会が分断し、南北戦争になってしまった。南北戦争中の1863年にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行い、南北戦争終結後、1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条で正式に奴隷制度が廃止されたんじゃ。南北戦争は、結果的に奴隷制度を廃止させたが、その代償は大き過ぎた。南北戦争の戦死者は、62万人だと言われておる。

 このように奴隷制度廃止に関する英米の比較からも、急進主義よりも漸進主義の方が無難だということが分かるじゃろう。

生徒 見解の相違ということで、今日のところは失礼します。ありがとうございました。

老先生 所有権論は、多岐にわたるので、公務員試験が終わったら、勉強してみるといいじゃろう。

源法律研修所

自治体職員研修の専門機関「源法律研修所」の公式ホームページ