下記の記事には、95か国で「夫婦別姓」が法制度化されている。「世界で日本は夫婦別姓が選べない国として取り残されています」とある。
「日本は、世界の流れに乗り遅れているから、〜すべし」という論法は、左翼の十八番。子供の頃から聞かされ続け、すっかり飽きてしまった。
世界の潮流を知らぬ愚かな大衆を啓蒙し導かねばならないと考えているのだろうが、さすがにもう誰もその手には乗らないだろう。
上手くいっているやり方をそのまま踏襲するのがよいことは、子供でも知っている経験則だ。世界で最も長く続いている国は、日本だ。日本の伝統・慣習は、それだけ日本の国柄・国民性にマッチし上手くいっているわけだ。なぜ何度も国を滅ぼしている諸外国を真似て変更せねばならぬのか。
夫婦同氏は、少なくとも江戸時代から続く伝統であり(法務省も学者も、明治民法からだと嘘を付いている。)、家族をワンチームにする先人の智慧だ。
夫婦同氏が現在まで続いているのは、共通のファミリー・ネームが家族仲良く肩寄せ合って生きていく日本の国柄・国民性にマッチしているので、これを良しと日本人が確信しているからだ。国柄・国民性を異にする諸外国には関わりがない。
夫婦同氏は、あくまでも日本の夫婦・家族のあり方に関わる問題であって、歴史的・文化的背景を異にする外国の制度を移入することは、無用な混乱を招くだけでなく、我が国の社会・文化を内部から崩壊させる危険がある。
なぜそのようなリスクを冒してまで移入せねばならぬのか。日本の社会・文化を内部崩壊させたいがためではないのか。
「大阪大学大学院の三浦麻子教授による調査で、婚姻時にどちらの氏を選択するか話し合わなかった夫婦は、調査対象のうち4分の3にも及んだことが明らかになった」そうだ。
三浦教授の論文を読んでいないので、この調査結果を踏まえてどのような主張をなさっているのかを知らないけれども、4分の3だから何だというのだろうか。
民法第750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と定めており、妻の氏を選択する自由が保障されているのだ。婚姻時にどちらの氏を選択するか話し合うか、慣習に従うかも、当該夫婦の自由だ。
当該夫婦がこれを話し合わずに慣習に従って夫の氏を選択したからといって、それが女性差別であり、事実上の強制・社会的同調圧力によるものだと決めつける権利は、誰にもないし、そのような決めつけこそが自由に対する抑圧以外の何ものでもない。
人間のあらゆる行動を法律の明文の規定で規制することは不可能であるし、望ましくもない。愚かな人間に、自らの行動を常に慎重かつ適切に決断させることも不可能だ。意識的であろうと無意識的であろうと、時の試練に耐えた慣習に従うことによって、各人の行動が自然に制禦され、争いを起こすことなく、自由と社会秩序の調和が保たれるのだ。
我々人間には本能に基づく行動様式がないことから、これに代わるものとして自然発生的に生まれたものが慣習だ。慣習は、言語と同様に、何らかの抽象的な原理・原則から演繹されたものでもなければ、特定の誰かが一方的に決めたものでもなく、長年、先人たちが試行錯誤しながら幾多の実地テストを経て自然発生的に形成された叡智であって、人は慣習を学びこれに従うことによって初めて本能を制御でき、真人間になる。もし慣習に従ったことがないヒトがいたとしたら、それは「裸のサル」だ。
この意味で慣習は、祖先から受け継いだ相続財産であって、これを破壊から守り、将来世代へと受け渡すことが大切になる。
ところが、左翼の連中は、革命を夢見て、この大切な慣習を悪だと決めつけ、「封建的」、「因習」、「時代錯誤」、「遅れている」、「差別的」、「抑圧的」などの罵詈雑言を浴びせ、これを破壊しようとする。
「特に中国や台湾、韓国、北朝鮮などのアジア各国では、原則的に「夫婦別姓」で同姓を選べない法制度となっている」から、日本も見習えと言うのだろうか。
「中華」(周辺民族を蛮族として蔑む差別思想に基づく自国の美称)を自称する支那(シナ。chinaの地理的呼称)及び「小中華」を自称する朝鮮(Koreaの地理的呼称)の「夫婦別姓」は、妻の地位が高いからでもなければ、男女平等だからでもなければ、妻の自己決定権が認められているからでもない。支那と朝鮮は父系社会であって、妻は終生よそ者だから、「夫婦別姓」なのだ。
「かつて、多くの国が婚姻の際に妻が氏を変えるという制度をとっていました」とあるが、支那と朝鮮では古代から「夫婦別姓」であって、いまだかつて一度たりとも「夫婦同姓」を採ったことはない。妻は、夫の宗族に入れてもらえず、跡継ぎである男子を産む道具として扱われてきたのだ。妻だけが家族の中で姓が異なるよそ者として扱われているのだ。
支那・朝鮮において、「夫婦別姓」こそが女性差別の象徴なのだ。不思議なことに左翼学者やマスコミは、誰もこれを指摘しないし、批判しない。自分のルーツだからだろうか。
「夫婦別姓を制度化した国の中には、国連による女性差別撤廃条約に批准している国もあるという。日本もこの条約に批准しており、これまで国連から選択的別姓制度を導入するよう4回にわたり勧告を受けている。」とある。
女性差別撤廃条約第2条b号は、「女子に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること。」を締約国に義務付け、同条約第16条第1項g号は、「夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)」を確保するよう締約国に義務付けている。
確かに、国が夫の氏を名乗るよう妻に強制しているのであれば、女性差別だろう。しかし、前述したように民法上、夫又は妻の氏を選択する自由が保障されており、当該夫婦が夫の氏を選択したからといって、どうしてこれが女性差別なのか。
国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)の勧告は、そもそも何の法的拘束力もないので、錦の御旗の如く振りかざしても意味はない。
女性差別撤廃委員会(CEDAW)の前任者は、赤旗の常連である極左の林陽子弁護士だったし、現在の副委員長は、同じく赤旗の常連である極左の秋月弘子氏であって、国連の権威を借りて、我が国の世論を誘導すべくかかる勧告を4回も行っているにすぎない。
「フランスでは夫婦別姓でも子どもの幸福に影響しない」とある。
中国・韓国等を見習えと言えば、反感・反発・反抗されると思ったのだろうか、今度は、おフランスか!苦笑
面倒臭いが、フランスの姓について、簡単に述べることにする。
フランスにおいても、夫婦親子が同じ姓を称するのが当然だと長い間考えられてきた。
ところが、共和暦2年実月6日(1794年8月23日)のdécretデクレ第1条に「いかなる市民も、その出生証書に表示されたもの以外の姓も名も称することができない」と定められた。
その理由については、恥ずかしながら勉強不足で分からない。ロベスピエールの恐怖政治の時代だから、ギロチンにかけられることを恐れて、偽名を使う者が多かったからかも知れないし、又は、フランス革命期の極端な個人主義が影響したのかも知れない。
理由はなんであれ、これ以降、フランスでは、婚姻による姓の変更自体が認められず、出生時の姓が真の名前で、不変だとされてきたので、フランスでは今でも「夫婦別姓」なのだ。
結婚相手の姓を名乗ってもよいが、それはあくまでも通名にすぎない。
上記デクレには、出生時に子供にどのような姓が与えられるかについて規定がなく、フランス民法にも当初規定がなかったが、慣習法により、嫡出子は、当然に父の姓を称すべしとされ、判例もこの慣習法を一貫して認めてきた。
その後の法の変遷については、煩雑なので、省略するが、2002年の民法改正により、男女平等の観点から、子供に父親姓だけでなく、母親姓を継がせたり、両親の二つの姓からなる併記姓を継承させることが可能になった。
この民法改正により、姓・氏・名字・苗字に相当するフランス語patronymeパトニーム(ギリシャ語のpatros(父)+onoma(名)に由来する。)は、nom de familleノン・ドゥ・ファミーエに置き換えられた。
nom de familleを直訳すれば、「家族の名前」なのだが、皮肉なことに、それは決して家族をワンチームにする「ファミリー・ネーム」を意味しない。夫婦別姓で、しかも父親姓・母親姓・併記姓の子供たちがいるので、家族の姓がバラバラだからだ。
そして、2022年3月に「姓の変更と選択に関する法案」が可決され、同年3月から施行された。
従来、出生姓を変更するには、「生活に支障をきたす」といった理由を述べて家庭裁判所に許可をもらう必要があったが、新法では、成人は、出生姓を母親姓のみ、父親姓のみ、又は両親の二つの姓からなる併記姓(順番は自由)に変更することが、市役所への届出だけで可能になった。
また、未成年の子の出生姓については、これまで通り、父親姓、母親姓、両親の二つの姓の併記姓を継承させることができるが、新法では、これに加えて、出生時に姓を継承させなかった側の親が、後になって自分の姓を通名として付け加えることが可能になった。
子供を産むのは女性であるから、子供に自分の姓を与える権利があるのに、実際にはこの権利を行使できなかったからだ。すなわち、子供の姓名は、生まれてから5日以内に市役所の戸籍課に届け出なければならず、出産直後の母親には困難であるため、父親が届け出るのだが、父親が子供の姓名欄に父親姓だけを記載して届け出ることが多かったからだ。
さて、話を戻すと、「子どもの幸福は家族同士の愛情関係にあり、別姓は影響していないことがわかってきました」とある。
確かに、フランスにおいて、夫婦別姓それ自体が子供の幸福に直接影響してはいないのかも知れないが、後述するように、子供を不幸にする背景にはなっているのではないか。
フランスがどうであれ、日本の夫婦同氏が家族を一つにまとめる役割を果たしていることを否定することはできない。
そもそも健全な家庭が壊れているフランスでは、多くの子どもが不幸な状況に置かれており、日本が目指すべき社会ではない。
少し古いデータだが、フランスの2011年の離婚率(同じ年の離婚数を婚姻数で割って100を掛けたもの)は、56%にもなっている。
子供よりも、自分が何よりも大切なフランスでは、夫婦間の愛情がなくなれば、躊躇(ためら)いもなく離婚するのだ。フランスでは、一生共働きが基本なので、金銭面で離婚を躊躇うことがない。
とはいえ、婚姻よりも離婚の方が何倍も時間と労力を必要とするのは、洋の東西を問わない。フランスでは、離婚する際のゴタゴタを減らすことができる事実婚(内縁)の方がお得だということで事実婚(内縁)が増え、第1子の3分の2以上が婚外子なのだ。
皮肉なことに、2013年にフランスでは同性婚が認められた結果、法律婚である同性婚が増加しているが。
そして、Amourアムール「愛」だなんだとほざいて、ふしだらな男女が婚姻・事実婚を繰り返し、my children、your children、our childrenが一つ屋根の下で家族ごっこを演じさせられている。
日本では、子供のことを第一に考え、親子三人が子を真ん中にして川の字になって仲睦まじく寝るからであろうか、国別の性交回数で、日本は世界最低であるのに対して、フランスは、ギリシャなどと並んで、性交の頻度が高く、薄い壁一つ隔てた寝室で親を名乗る異性又は同性同士が本能の赴くままに頻繁に痴態を演じている。
フランスのかかる状況が子供の健全な育成と幸福にとってふさわしいとは到底思えない。
実際、「2020年にIPSOS が発表した調査によれば、フランスでは10%の国民、つまり670万人が子ども時代に近親者によるレイプあるいは性的虐待を受けており、平均して9歳頃に最初の被害を受けている。」
異常だ。
青少年の犯罪も、増加傾向にある。特に強盗、傷害、窃盗、強姦、薬物犯罪は、増加の一途をたどっている。
家族の姓がバラバラであっても、愛情があれば、家族の一体感は失われないというフランス人の主張は、己の欲望の赴くままに婚姻・事実婚(内縁)を繰り返すふしだらな親の身勝手な言い草として虚しく響く。「家族の多様性」などの言葉で片づけられたら、不幸な子どもたちはやりきれまい。
馬鹿左翼の言う通りにしたら、日本もフランスのようになるという意味では、反面教師としてフランスを参考にできるだろう。
いわゆる「選択的夫婦別姓」が導入されたら、それで終わりではない。今度は、先祖と「姓」との結びつきを切断すべく、「新姓選択権」を認めろという左翼運動が盛んになるだろう。
例えば、ジェンダー論者である北原零未『夫婦別姓は何故「嫌われる」のか?』(中央大学社会科学研究所年報第21号(2016)255頁)に、「筆者は,婚姻制度における改姓の強制も人権侵害であるが,同時に婚姻や養子縁組,その他特段の事情がない限り,親(イエ)の姓を名乗り続けなければならないのも個人の尊厳に対する侵害であり,成人に際して新姓選択権が認められるべきであると考えている.」とあるからだ。
ありとあらゆる機会を捉えて、日本を破壊しようと必死だ。いわゆる「選択的夫婦別姓」を絶対に阻止しなければならない。
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